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地図でたどる日光街道TOP > 地図検索 > 43.小山〜喜沢東(説明)

仲間と出会う、感動と出会うクラブツーリズムの旅/福岡発バスツアー
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日本橋から日光東照宮までの街道沿いで紹介したい宿泊施設や食事店がありましたらご連絡ください。

第十二次小山宿〜第十三次新田宿 43.小山宿〜喜沢東  44.喜沢東〜羽川  45.羽川〜新田 

小山宿から喜沢東まで
小山駅から延びた県道31号線をそのまま行くと、右に城山公園、小山城趾(祇園城)、珠景の森、天翁院、小山氏代々の墓、千手観音などがある。
日光街道を北へ行くと左に元須賀神社、このあたりが小山宿の北の出口であった。信号の手前にスーパーホテル小山、右に行く道が小山結城泉。次の信号の先左に倶利加羅不動尊がある宝性院、本多正純、徳川家康から寺領を与えられた興宝寺・地蔵尊、左に県内最古の狛犬がある愛宕神社がある。次の古川薬局のある信号は過ぎると道は少しずつ右に曲がっているが、旧日光街道は郵便局あたりからまっすぐ北に延びていた。しばらく行くとJR両毛線を横切り、さらに行くと左に小平産業、そして信号がありこのあたりで旧日光街道と合流していた。





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小山宿から新田宿 小山宿(栃木県小山市)〜喜沢東(栃木県小山市) 1928m 23分

○元須賀神社
○評定坂

小山市と祇園城跡
 小山市は、天慶3年(940)に平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷の子孫で、12世紀中頃に、政光を初代として成立しました。政光の妻が源頼朝の乳母だったこともあり、頼朝に味方し、鎌倉幕府の成立に大きな力となり、幕府の御家人として東日本屈指の勢力を誇っていました。14世紀後半の小山義政・若犬丸の乱で、下野守護であった義政は鷲城や祇園城などを本拠に鎌倉府軍と戦いましたが、これを境に小山市の勢力は著しく衰退していきました。祇園城は、この乱以降、小山氏の居城となったと考えられています。名称は、城内に祇園牛頭天王社を祭ったことに由来するといわれています。
 戦国時代になると、小山は北関東の要衝であることから、越後の上杉氏や小田原北条氏がたびたび祇園城に来攻した。天正18年(1590)、豊臣秀吉が北条氏を攻略して天下統一を果たすと、北条氏に属していた小山氏は、領地を没収されてしまいます。
 江戸幕府の成立後の慶長12年(1607)ごろ、徳川譜代の本多正純が3万石余りで小山に封じられるとその居城となりましたが、元和5年(1619)正純が宇都宮に移封されると、廃城となりました。そしてこの一画には、徳川将軍家の日光社参の際の休憩・宿泊所として「小山御殿」が造営されました。城内の南の領域は慶長5年(1600)7月25日にいわゆる「小山評定」が開かれた地と考えられています。

祇園城関係年表
 治承4年(1180)小山政光の妻(寒川尼)、源頼朝に隅田で再会。
 寿永2年(1183)小山朝政ら、反頼朝方の志田義弘を破る。(野木宮合戦)
 建久3年(1192)源頼朝、征夷大将軍に任ぜられる。
 文治3年(1187)寒川尼、頼朝より寒川郡綱戸○の地頭職に任じられる。
 寛喜2年(1230)小山朝政、所領・所○を長村に譲る。
 建武3年(1336)小山氏、足利氏に従い、新田義貞を破る。
 康暦2年(1380)小山義政、宇都宮基綱と戦う。
 永徳元年(1381)小山義政、鎌倉府軍と戦う。鷲城を開城し、祇園城に入る。
 永徳2年(1382)小山義政、祇園城に放火し、○尾山に立てこもる。鎌倉府軍に敗れ自害する。
 至徳3年(1386)義政の子若犬丸、祇園城にて挙兵。
 応永4年(1397)若犬丸、奥州会津にて自害する。若犬丸の子、六浦に沈められる。小山氏滅亡。
         結城氏より泰朝を迎え、小山氏再興(重興小山氏)。
 永享11年(1439)永享の乱(1438〜)、祇園城、鎌倉公方方の那須氏に攻め落とされる。
 永享12年(1440)結城合戦(〜1441)、結城勢が小山宿城(祇園城)に来攻するも、小山方撃退する。
 永禄6年(1563)越後の上杉謙信、祇園城を攻め落とす。
 天正3年(1575)小田原の北条氏、祇園城を攻め落とす。
 天正10年(1582)織田信長と北条氏の協定により、祇園城が小山氏に返還される。
 天正18年(1590)豊臣秀吉、小田原北条氏を制圧。祇園城は豊臣方の結城氏に攻め落とされる。
 慶長5年(1600)徳川家康、小田原評定を催す。
 慶長8年(1603)徳川家康、征夷大将軍に任ぜられる。
 慶長13年(1608)本多正純、城主となる。
 元和5年(1619)本多正純、宇都宮に移封。(祇園城廃城)
 天和2年(1682)小山御殿解体される。

小山御殿
 小山御殿は、徳川将軍家の日光社参の際の休憩・宿泊所として設けられました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直前に行われた「小山評定」の吉例にならったものといわれています。
 徳川家康は元和2年(1616)4月17日に没し、翌年日光東照社(後の日光東照宮)にその遺骸が改葬され一周忌が営まれます。それ以来、日光は徳川将軍家の聖地となります。将軍家の日光社参は19回に及び、なかでも、3代将軍家光は10回、日光参詣をおこなっています。
 小山御殿はかなり厳重な配置になっていたようで、周囲に堀が廻り、土塁が二重に築かれ、敷地内には16ヶ所に御番所が設けられていました。
 将軍家の日光社参は寛文3年(1633)に4代将軍家綱がおこなって以降、8代将軍吉宗が享保13年(1728)に再開するまで財政難のため中絶します。この間、大風によって建物の一部が壊れてしまったこともあり、小山御殿は天和2年(1682)、古河藩によって解体されました。

御殿広場(ごてんひろば)発掘調査の経緯
 慶長5年(1600)、会津の上杉征伐に向かう徳川家康は、小山で石田三成らの挙兵を知り、軍議を開いて関ヶ原の勝利へといたります。この軍議を小山評定(おやまひょうじょう)といい、現在の市役所付近で行われたと考えられています。
 元和8年(1622)4月、徳川二代将軍秀忠は、この吉例にならい、祇園城内に日光社参(主に徳川家康の命日である4月17日に将軍家が参拝する行事)用の休泊施設「小山御殿」を造営します。
 御殿は、南北100m・東西約64mのほぼ方形に敷地に、堀と二重の土塁(敵の侵入を防ぐため、城の周囲に築かれた連続した土盛り)を廻した堅牢な施設でした。3代将軍家光が10度、4代将軍家綱が2度この御殿を日光社参の祭の休息所として利用しましたが、天和元年(1681)の台風によりその一部が壊れ、翌年には解体されました。
 この御殿広場を含む国史跡祇園城跡整備に伴い、整備の事前資料収集のため発掘調査を実施しています。平成21年2月から遺構確認のための発掘調査を実施したところ、建物の柱と思われる穴や井戸跡が確認されました。御殿は、解体に伴って大半の部分は撤去されたことがわかっているため、位置確認の有力候補は御殿にあった井戸です。今後は、構築時期や形態を明らかにし、城の最終段階で造営された「小山御殿」の位置確認のための参考資料とするため、井戸跡の調査も実施する計画です。
 担当課 小山氏教育委員会文化振興課 TEL 0285-22-9659

史跡 祇園城跡
 平安時代に藤原秀郷が築いたという伝承もありますが、正確な築城年代は不明で、記録に見えるのは14世紀後半のころからです。この城を築いたとき、城守りの神として祇園社(現在の須賀神社)をまつったことから、祇園城と呼ばれるようになったと伝えられています。
 西に思川をひかえた丘陵を利用して築かれ、築城されたころは現在の城山公園程度の規模と思われ、小山氏の本拠となったのは15世紀になってからのことでしょう。戦国の動乱にさいして。小山氏は越後の上杉氏や小田原の北条氏といった有力な戦国大名に攻略され、天正3年(1575)北条氏照によって祇園城は陥落、小山秀綱は追放されました。その後氏照が大規模に拡張・整備を行ったと思われます。
 やがて北条氏も滅亡し、江戸幕府成立後本多正純が3万石で城主となり、最終的な縄張りを完成させ、東西約400m、南北約700mにおよぶ城郭となりました。この正純も元和5年(1619)宇都宮へ転封となり、祇園城は廃城となりました。  平成3年3月は12日 国指定 小山氏教育委員会

小山市 小山城址案内
 指定史跡 建築年代 応永〜寛正(1460〜65)ころ 
 築城者 第二次小山氏(持政のころ拡張) 面積35,513.38u(市指定部分)
 小山城(祇園城ともいわれる)は小山駅の西方500m、思川東岸の台地上にある南北に長く西側は思川の浸食によって、切りたった崖になっていて、天然の要害をうまく利用している。東側は宅地造成が進んで旧状を失っているが、台地の部分には中世の名城の面影がよく残っており、史跡として保存が計られ、城山公園の名で市民に親しまれている。
 縄張りとしては幅10m以上の空堀と土塁で仕切られた郭が並び、天翁院の北側の塁濠が城の北限を示している。南は思水荘の一帯に及んでいるが、南限の線は明瞭ではない。
 小山氏は関東有数の豪族領主として知られ初代政光以来鎌倉幕府内で勢威を張ってきたが、第11代義政にいたって関東管領足利氏満に叛したため滅亡した。やがて室町幕府の配慮により、同族結城氏から基光の次男泰朝が小山に入って第二次小山氏の祖となった。
 泰朝はおそらくこの城址の一郭に居を卜したと考えられるが場所不明。その後第三代持政のとき、時勢にかんがみて大いに拡張整備された模様である。動乱の戦国時代の末期、第九に政権は小田原の後北条氏に加担したため豊臣秀吉の怒りに触れ、没収追放の身となり、天正18年(1590)7月第二次小山氏も滅びた。天翁院には、小山氏の墓地があり、多数の板碑(市指定文化財)が保存されている。  (昭和56年3月)

小山市指定文化財(天然記念物)
 公孫樹(こうそんじゅ イチョウ)
 公孫樹とは、イチョウの漢名。このイチョウは、漢名で呼ばれている。また、樹形の大きいことから、「城山公園の大いちょう」とも呼ばれ、市民に親しまれている。
 このイチョウについて、享和3年(1803)に書かれた旅行記(日光駅程見聞雑記)に、『古井戸の握りたる近くに銀杏の樹あり 高さ3尺もある古木なり』と また、文政年間(1818〜1830)の末頃に編まれた案内記「小山砂子」にも「御城山に今 古木となり手銀杏の木あり」との記載が見られ、ほぼ2世紀前、すでに古木だったと伝えられている。
 祇園時用落城の際、古井戸に身を投げて亡くなった姫君の霊が、かたわらのイチョウに宿り、実を結ぶことがない。との伝説もある。そのためか、「実なしいちょう」とも呼ばれてきた。
 イチョウは、中国原産の落葉高木で雌雄異株、樹齢を長く保つことで知られている。中生代(2億3千万年〜7千万年前)によく栄えた遺存種で、生きている化石ともいわれている。
 樹勢を回復するため、平成7年(1995)に、名木リフレッシュ事業による手当を行った。
 樹高約15m 目通り約6m 枝張り東西約11m 南北約12m
 指定年月日 昭和40年12月21日 所在地 小山氏本郷町1丁目51番地 所有者 須賀神社
 小山氏教育委員会

○城山公園
○小山城趾
○天翁院・小山氏代々の墓
○千手観音
○珠景の森跡

興法寺の縁起
 天台宗、徳王山妙楽院と号す。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、嘉祥2年(1037年前)慈覚大師円仁(天台宗3世・壬生出身)が都賀郡室の八島に下向の際、小山荘に一宇を建立して妙楽院と号したのが始まり。その後、天慶3年に藤原秀郷が小山城を築城すると、城内に移転して徳王山妙楽院興法寺と号したという。(旧県史4)亦一説には、小山城主の帰依を受けた天台僧興海の中興開山と伝えられる。慶安2年8月、徳川家光から朱印で9石の寺領が寄進され、寺中山林竹木諸役なども免除された。(稲葉郷興法寺領朱印状現存)
 天和3年火災のため堂宇を消失、貞享4年覚栄法師によって再建された。第57世貫首日光輪王寺宮門跡公弁法親王(後西院帝第6皇子)がしばしば休泊した所として知られ、元禄8年には阿弥陀三尊像厨子、比叡山中興の慈恵大師良源像厨子、当山施餓鬼会本尊地蔵菩薩像厨子、門額などを寄進したといわれる。
 また天和3年消失後の再建も公弁法親王の助力によるものと伝える。かって7月22日〜23日に聖霊会(法界大施餓鬼会)があり、老若の参詣が多かった。
 文化5年にも類焼したが、明治18年滋湛法印が堂宇を再建、山門は消失を免れた。
 時報としては、弥陀三尊金銅佛(鎌倉期県文化財)、絹本著色羅漢図(元・鎌倉期県文化財)、同不動明王像(南北朝期県文化財)、同文殊菩薩像(室町期県文化財)、同涅槃図(室町期県文化財)、同如意輪観音像(江戸期県文化財)、同千住観音像(江戸期県文化財)  (角川日本地名大辞典・栃木県より)

○興法寺・地蔵尊
○宝性院
○愛宕神社

元須賀神社
城山公園
宝性院
興法寺
地蔵尊
愛宕神社
千手観音
天翁院
珠景の森
醤油発祥の地
狛犬
城山
本郷
花垣
若木
稲葉
両毛線
栃木の渡
,栃木県
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