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日本橋から日光東照宮までの日光街道沿いに紹介したい宿泊施設や食事店がありましたらご連絡下さい。
街道用語
街道 ・ 日光街道 ・ 日光御成街道 ・ 日光西街道(壬生道) ・ 日光例幣使街道 ・  例幣使 ・ 戊辰戦争 ・ 徳川家康 ・ 徳川将軍 ・ 宿場 ・ 番所 ・ 本陣 ・ 脇本陣 ・ 旅籠 ・ 木賃宿 ・ 茶屋 ・ 枡形 ・ 木戸 ・ 問屋場 ・ 関所 ・ 高札場 ・ 河岸 ・ 追分 ・ 道しるべ ・ 一里塚 ・ 板碑 ・ 石仏 ・ 石地蔵 ・ 地蔵 ・ 観音像 ・ 道祖神 ・ 六観音 ・ 六道 ・ 馬頭観音 ・ 十九夜 ・ 庚申塔 ・ 青面金剛 ・ 神社 ・ 鳥居 ・ 祭神種類 ・ 境内 ・ 参道 ・ 手水舎 ・ 拝礼 ・ 狛犬 ・ 力石 ・ 火の見櫓

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街道用語

●日光街道(日光街道)
 日本橋〜千住宿〜草加宿〜越谷宿〜春日部宿〜杉戸宿〜幸手宿で日光御成街道と合流する。江戸時代以前の道は、千住から越谷間は古利根川、元荒川に沿った道でしたが、江戸防衛、水田開発促進のために沼や湿地を埋め立て千住から北へまっすぐ延びる道がつくられました。家康が鷹狩りに利用した。日光街道は、日本橋(東京都中央区)〜千住宿(東京都足立区)〜草加宿(埼玉県草加市)〜越谷宿(埼玉県越谷市)〜粕壁宿(埼玉県春日部市)〜杉戸宿(埼玉県杉戸町)〜幸手宿(埼玉県幸手市)〜栗橋宿(埼玉県栗橋町)〜中田宿(茨城県古河市)〜古河宿(茨城県古河市)〜野木宿()〜間々田宿()〜小山宿()〜新田宿()〜小金井宿()〜石橋宿()〜雀宮宿()〜宇都宮宿()〜徳次郎宿()〜大沢宿()〜今市宿()〜鉢石宿()〜日光東照宮までの道のり。

●日光御成道(にっこうおなりかいどう・にっこうおなりみち)
 江戸以前の鎌倉街道を、将軍が日光東照宮にお参りするために、大手門から直接出発し中山道を通り、本郷追分で分かれ、幸手までを日光街道の脇街道として整備された。また、岩槻犯の参勤交代に使われたことから「岩槻街道(いわつきかいどう)」とも呼ばれている。日光御成街道は、本郷追分(文京区)〜岩淵宿(東京都北区) 〜川口宿(埼玉県川口市)〜鳩ヶ谷宿(埼玉県鳩ヶ谷市)〜大門宿(埼玉県さいたま市緑区)〜岩槻宿(埼玉県さいたま市岩槻区)〜幸手宿(埼玉県幸手市)までの街道。

●壬生街道(みぶかいどう)
 日光西街道(にっこうにしかいどう)とも呼ばれる。小山の先の喜沢で街道と別れ、宇都宮を通らず楡木で例幣使街道と合流する。楡木〜今市宿までは例幣使街道と同じ道で日光例幣使街道と呼ばれている。小山宿(栃木県小山市)〜飯塚宿(栃木県小山市)〜壬生宿(栃木県下都賀郡壬生町)〜楡木宿(栃木県鹿沼市)〜奈佐原宿(栃木県鹿沼市)〜鹿沼宿(栃木県鹿沼市)〜文挟宿(栃木県日光市)〜板橋宿(栃木県日光市)〜今市宿(栃木県日光市)

●例幣使街道
 中山道から日光へ向かう道で、倉賀野から中山道と分かれ、今市で日光街道と合流する。京都からの例幣が通った道。倉賀野宿(群馬県高崎市)〜玉村宿(群馬県佐波郡玉村町)〜五料(ごりょう)宿(群馬県佐波郡玉村町)〜柴宿(群馬県伊勢崎市)〜境宿(群馬県伊勢崎市)〜木崎宿(群馬県太田市)〜太田宿(群馬県太田市)〜八木宿(栃木県足利市)〜梁田宿(栃木県足利市)〜天明宿(栃木県佐野市)〜犬伏宿(栃木県佐野市)〜富田宿(栃木県下都賀郡大平町)〜栃木宿(栃木県栃木市)〜合戦場(かっせんば)宿(栃木県下都賀郡都賀町)〜金崎宿(栃木県上都賀郡西方町)〜楡木宿(栃木県鹿沼市)〜奈佐原宿(栃木県鹿沼市)〜鹿沼宿(栃木県鹿沼市)〜文挟(ふばさみ)宿(栃木県日光市)〜板橋宿(栃木県日光市)〜今市宿(栃木県日光市)

●例幣使
 正保3年(1646年)より、日光東照宮の例祭に派遣される日光例幣使の制度が始まった。江戸時代には、単に例幣使と言えば日光例幣使を指すことの方が多かった。
日光例幣使にとって、当時日光へ出向くことは大変な「田舎道中」であり、一刻も早く行って奉幣を済ませて帰りたいという心理があり、また道中で江戸を経由することとなると幕府への挨拶など面倒も多かったため、例幣使は東海道・江戸を経由せず、中山道〜倉賀野宿〜例幣使街道という内陸経由で日光へ往復した。
日光例幣使は普段は貧乏な下級公家であるが道中では朝廷と幕府の権威を一身に背負ったため大変な権勢を誇った。公務であるため宿場や助郷村は無賃で道中に協力させられ大変な迷惑をこうむったという。以下のような話が伝わっている。
・駕籠が少しでも揺れると自ら駕籠の中から飛び出して『人足の不調法で駕籠から落とされた、この無礼を幕府に 訴える』と主張し宿場や人足から示談金をせしめた。この行為は強請の語源になったという。
・大量の空の長持を用意しそれに対し六人持ち(人足六名で担ぐ)、八人持ち(人足八名で担ぐ)などと指示を行い宿 場が用意できる人数を大幅にこえる人足数をそろえるよう主張した。これは不足した人足分について宿場側より 補償金をせしめるためである(例幣使側が直接人足を雇用したという建前)。勿論宿場側もしたたかであり値引き の交渉も盛んに行われた。
・江戸では幕府が用意した屋敷に滞在するが出立時には家財道具一式、それこそ漬物石にいたるまで前述の空の長 持に詰め込んで出発したという

●戊辰戦争
 江戸城は開城したものの、徹底抗戦派の幕臣および旧幕府軍は徳川家の聖地である日光廟に篭もって兵を募り、そこで新政府軍と一大決戦を行うつもりで大量に江戸を脱走、下野国日光山を目指していた。一方、時を同じくして当時下野国で起きていた世直し一揆を鎮圧するために東山道総督府が下野国宇都宮に派遣していた下野鎮撫香川敬三(総督府大軍監)は、手勢を引き連れ日光道中を北上中、下総国粕壁で流山に新撰組が潜んでいる噂を聞き有馬藤太を派遣して近藤勇を捕縛した。近藤は板橋に送られたが、香川はそのまま行軍を続け宇都宮に駐屯した。世直しが沈静した直後の4月12日、大鳥圭介は伝習隊、幕府歩兵第七連隊、回天隊、新撰組など総勢2,000人の軍隊を引き連れて下総国市川を日光に向けて出発、途中松戸小金井から二手に分かれ、香川の駐屯する宇都宮城の挟撃に出立した。これを聞いた宇都宮の香川敬三は、一部部隊を引き連れてこれを小山で迎え撃った。兵数と装備で勝る旧幕府軍が宇都宮城を占領するも、宇都宮から一時退去し東山道総督府軍の援軍と合流、大山巌や伊地知正治が統率する新政府軍に奪い返され、もともと目指していた聖地日光での決戦に備えるべく退去した。

●関東郡代
 従来、関東郡代と考えられていた関東代官伊奈氏は、関八州の幕府直轄領約30万石を管轄する。行政・裁判・年貢徴収なども取り仕切り、警察権も統括していた。また将軍が鷹狩をするための鷹場の管理も行っている。
陣屋ははじめ武蔵国小室(現埼玉県北足立郡伊奈町)の小室陣屋。のち1629年(寛永6年)に同国赤山(現埼玉県川口市)の赤山陣屋へと移された。さらに武蔵国小菅(現東京都葛飾区小菅)にも陣屋があり、家臣の代官を配置していた。
徳川家康の関東入府の際に伊奈忠次を関東の代官頭に任じたことに始まり、その後12代200年間に渡って伊奈氏が関東代官の地位を世襲した。1692年(元禄5年)飛騨高山藩領地が天領となった際には6代忠篤が飛騨郡代も一時的に兼務した。また、享保年間には鷹場支配と公金貸付を中心とした「掛御用向」の地位に就いた。
本来、関東代官は勘定奉行の支配下にあったが、1733年(享保18年)8代忠逵の代には勘定吟味役を兼任しており、関東代官は老中の直属支配下に入ることになる。更に12代忠尊の1785年(天明5年)には奥向御用兼帯となり、その2年後には小姓組番頭格となるなど、他の郡代・代官とは別格の地位を築いた。伊奈氏の「関東郡代」自称もこうした特殊な地位が背景にあったと考えられている。ところが、直後に伊奈氏の当主の地位を巡る御家騒動が発生、讒言によって1792年(寛政4年)3月に伊奈忠尊は関東代官を罷免、改易されてしまった。

●伊奈忠次
 三河国幡豆郡小島城主(現在の愛知県西尾市小島町)の伊奈忠家の嫡男(忠家の父忠基の末子との説もあり)に生まれる。天正3年(1575年)の長篠の戦いに陣借りをして従軍して功を立てる。天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発し、堺を遊覧中であった家康を本国へと脱出させた伊賀越えに小栗吉忠らと共に貢献する。この功により、父忠家の旧領小島を与えられた。また三遠奉行の一人として検地などの代官であった吉忠の同心となり、後に吉忠の跡を継ぐ形で代官衆の筆頭になる。以後駿・遠・三の奉行職として活躍、豊臣秀吉による小田原征伐や文禄・慶長の役では大軍を動かすための小荷駄による兵粮の輸送、街路整備などを一手に担い、代官としての地位を固めた。家康が江戸に移封された後は関東代官頭として大久保長安、彦坂元正、長谷川長綱らと共に家康の関東支配に貢献した。
関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行った。利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れない。関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来している。また、伊奈町大字小室字丸山に伊奈屋敷跡がある。
諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民たちはもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などをすすめ、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも神仏のように敬われていたという。伊奈町は忠次が町名の由来である。嫡男の忠治は茨城県筑波郡伊奈町(現在のつくばみらい市伊奈地区)の町名の由来となっており、親子2代で地名の由来となっている。

●宿場
 街道の往来はもっぱら馬によるものであり、このために途中で馬に対する給餌や馬の乗り換えが必要となった。また急を要する手紙などを運ぶ場合、早馬によるリレー形式で繋いでいく方が効率的であり、それを行うには中継ぎの場が必須であった。また旅行者にとっても宿泊所や休息所がなければならない。これらの役割を果たすために奈良時代・平安時代から駅馬・伝馬の制度によって整備されていった。また、宿場を中心に形成された町を宿場町(しゅくばまち)と呼ぶ。

●番所
 江戸時代の日本では重要な地点に番所が置かれていた。▼交通の要所に番所が設置され、通行人や荷物、船舶などを検査・徴税を行った。江戸幕府設置のものでは浦賀番所・下田番所などが知られ、各地の主要港や利根川・淀川などの大河川流域などに船改番所が設置されていた。また、関所の中には番所が設置され、同様の役割を果たしていた。更に長崎のような外国船の来航が予想される主要港や箱根関所などの主要関所の近くには遠見番所が設置され、船改番所や関所と連携して不審船や不審人物を高所から監視する役目を担っていた。▼一方、江戸において「(御)番所」は町奉行所を指していたが、この他にも江戸城の城門に設置された御門番所、武家地の警備のために辻などに置いた辻番所、両国橋などの主要な橋のたもとに置かれた橋番所、町人地の木戸に設けられた木戸番屋、その他町内に配された自身番屋などがあった。▼また、諸藩の中でも宿場町などの領内の重要地点や他領や天領との境界に番所(口留番所・境目番所)設置して通行人や荷物の取り締まりを行い、領民や物資の領外への流出を阻止したり徴税を行ったりした。なお、武家諸法度には大名が私に関所を設置することを禁止する規定があり、実際には番所の設置が関所の代替の役目を果たしていた。

●本陣
 寛永11年(1634年)の将軍徳川家光の上洛の際に宿泊予定の邸宅の主人を本陣役・本陣職に任命したのが起源とされ、翌年の参勤交代導入とともに制度化された。本陣には宿泊者から謝礼が支払われたが、それは対価ではなくあくまでも謝礼であり、必ずしも対価として十分なものとは言えなかったとされる。そのため、本陣の指定に伴い、そこの主人には苗字帯刀、門や玄関、上段の間を設けることができるなどの特権が認められた。宿泊できるのは大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などに限られ、原則として一般の者を泊めることは許されておらず、営業的な意味での「宿屋の一種」とはいえない。宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多かった。

●脇本陣
 脇本陣(わきほんじん)は、本陣の予備的施設で、大きな藩で本陣だけで泊まりきれない場合や、宿場で藩同士が鉢合わせになった場合の格式の低いほうの藩の宿として利用されるなど、本陣に差し支えが生じた場合に利用された。それ以外の時は一般旅客の宿泊を受けた。規模は本陣よりも小さいが、諸式はすべて本陣に準じ、上段の間などもあり、本陣と同じく宿場の有力者が勤めた。

●名主
 名主(なぬし)は、江戸時代の村役人である地方三役(じかたさんやく 村方三役とも言う)のひとつ、あるい
は町役人(ちょうやくにん)のひとつで、町(ちょう)の代表者である。町名主(ちょうなぬし)・町庄屋(ちょうしょうや)・支配名主(しはいなぬし)ともいう。町名主は俗称である。西日本では庄屋とよぶことが多い。村三役は一般的には、名主が村政全体を代表し、組頭がその補佐役、百姓代が監査役と説明されるが、実際のあり方は多様である。名主は身分としては百姓であるが、一般農民よりは一段高い階層に属し、その屋敷に門を構えたり、母屋に式台を設けることができ、着衣や履物にも特例が許されていた(絹物や雪駄の着用)。
名主は日常業務を自宅で行っていた。名主宅に組頭等の村役人が集まり、年貢・村入用の割当てをしたり、領主から命ぜられる諸帳簿や、村より領主への願書類等の作成に当った。また領主から触書、 廻状類は、それを帳面に書き写したうえで、原文を定使に命じて隣村へ持って行かせた。ほとんどの公文書には名主の署名・捺印が必要とされ、村人相互の土地移動(主として質地)にも名主の証印が必要とする場合が多かった。それゆえ最低限の読み書き算盤の能力は必要だった。

●旅籠
 旅籠という言葉はもともとは旅のとき、馬の飼料を入れる籠(かご)のことであった。それが、旅人の食糧等を入れる器、転じて宿屋で出される食事の意味になり、食事を提供する宿屋のことを旅籠屋、略して旅籠と呼ぶようになった。
江戸時代の街道には宿場ごとに多くの旅籠があって武士や一般庶民の泊まり客で賑わった。次第に接客用の飯盛女を置く飯盛旅籠と、飯盛女を置かない平旅籠に別れていった。しかし、明治時代になって旧街道が廃れ、鉄道網が発達してくると、徒歩や牛馬による交通が減少し、旅籠も廃業に追い込まれたり、駅前に移転するところが相次ぐようになった。現在でも、旧宿場町の同じ場所で昔のままに旅館を営んでいるものは数えるほどしかない。
混雑時には相部屋が求められ、女性の旅客は難儀をしたとされる。
旅籠の宿泊代は概ね一泊200〜300文(現在の貨幣価値で3000〜5000円程度に相当)程度が一般的だった。

●木賃宿
 木賃宿(きちんやど)とは、江戸時代以前の街道筋で、燃料代程度もしくは相応の宿賃で旅人を宿泊させた最下層の旅籠。宿泊者は大部屋で自炊が原則であり、寝具も自己負担が珍しくなく、棒鼻と呼ばれた宿場町の外縁部に位置することが多かった。食事は宿泊客が米など食材を持ち込み、薪代相当分を払って料理してもらうのが原則であった。木賃の「木」とはこの「薪」すなわち木の代金の宿と言うことから木賃宿と呼ばれたが、後には単に安価で粗末な宿泊施設や安宿を意味する言葉となった。木銭宿(きせんやど)とも言う。商人宿、職人宿などを含む場合もある。

●茶屋
 茶屋(ちゃや)は、休憩所のことで、場所を提供し注文に応じて茶や和菓子を飲み食いさせる店として発達した。茶店(ちゃみせ)ともいう。交通手段が徒歩に限られていたので、宿場および峠やその前後で見られ、これらを「水茶屋」「掛け茶屋」といい、街道筋の所定の休憩所であった。立場にあれば「立場茶屋」と呼ばれていた。 また、茶の葉を売る店は「葉茶屋」と言う。

●立場
 立場(たてば)とは、江戸時代の五街道やその脇街道に設けられた施設である。継立場(つぎたてば)あるいは継場(つぎば)ともいう。江戸時代の宿場は、原則として、道中奉行が管轄した町を言う。五街道等で次の宿場町が遠い場合その途中に、また峠のような難所がある場合その難所に、休憩施設として設けられたものが立場である。茶屋や売店が設けられていた。俗にいう「峠の茶屋」も立場の一種である。馬や駕籠の交代を行なうこともあった。藩が設置したものや、周辺住民の手で自然発生したものもある。また、立場として特に繁栄したような地域では、宿場と混同して認識されている場合がある。この立場が発展し、大きな集落を形成し、宿屋なども設けられたのは間の宿(あいのしゅく)という。間の宿には五街道設置以前からの集落もある。中には小さな宿場町よりも大きな立場や間の宿も存在したが、江戸幕府が宿場町保護のため、厳しい制限を設けていた。

●枡形
 (ますがた)。宿場の両端の街道を直角に曲げた場所。外的を迎え撃つための城郭の虎口(こぐち)で城郭、あるいは曲輪の正面開口に当たり木戸などの門を設けた。

●筋違い
 路のつけかたで、外敵侵入の際の市街戦を想定して考え出された「五の字型」の道路であった。道は一応四方に通じているが、見通しを妨げるために食い違いを設けたり、丁字路や鍵曲がりをつくる。場合によっては袋小路もつくり、これらを利用して敵を迎え撃つ。道も広くはない。幹線道路でもせいぜい7〜8mどまりとし、大軍の襲撃を阻むのである。

●江戸36見附
 見附は読んで字のごとく「見つける」ことで、そこから「見張る」という意味が派生し、不審なものが侵入しないよう見張る場所、即ち監視所を見附と呼ぶようになったようだ。単に「江戸三十六門」ともいう。
江戸城は、15世紀、室町時代に太田道灌が江戸湾付近に建てた平城で、攻められやすい弱点を持っていた。江戸に幕府が開かれたころは、徳川政権の基盤も不安定だったので、江戸城は敵襲に備えて大改修され、渦巻状に堀をめぐらして「難攻不落の城」に変える努力が行われた。「堀に面した城門」には「枡形」と呼ばれる長方形の小さな広場が設けられ、そこを通らないと城内に入れなくして、枡形に入る不審者を監視する仕組みになっていた。この「枡形のある、堀に面した城門」を見附と呼んだのである。
「江戸城三十六見附を歩く」(鈴木謙一著、わらび書房)は、隅田川に近い外堀から渦巻状に 1浅草橋門 2筋違門橋 3小石川門 4牛込見附 5市谷見附 6四谷見附 7食違門 8赤坂見附 9虎ノ門 10幸橋門 11山下橋門 12数寄屋橋門 13鍛冶橋門 14呉服橋門 15常盤橋門 16神田橋門 17一ツ橋門 18雉子橋門 19竹橋門 20清水門 21田安門 22半蔵門 23外桜田門 24日比谷門 25馬場先門 26和田倉門 27大手門28平川門 29北桔梗門 30西の丸大手門 31西の丸玄関門(二重橋) 32坂下門 33内桜田門=桔梗門 34下乗門 35中之御門 36中雀門−−を三十六見附としているが、今も「見附」の名前を残すのは「牛込」「市谷」「四谷」「赤坂」の4つだけだ。

●墨田川五橋
 隅田川は、五本の橋と船渡しで川を渡る方法がある。五本の橋を江戸五橋とよんでいました。
上流から順に、「千住大橋」で、江戸最初の橋です。1594年に家康が奥州街道往還の人々のために造らせました。
この橋の手前が南千住で、日本橋から最初の宿場町です。これより内側を江戸とみなす時代が長くありました。
次が「吾妻橋」で、竹町の渡しがあった所です。この橋は、大川橋と呼ばれ江戸時代の最後に架けられた橋で、1774年に町民の願い出により町民の力により架けられたため、しばらくは、有料でした。
その下流は、「両国橋」になります。 江戸2番目に1658年に架けられた橋で、大橋と呼ばれ、江戸と下総の国(千葉県)を結ぶことから両国橋と名づけられました。この両国で、たくさんの見世物興行や相撲などが、行われ、江戸の文化を庶民と共に育んだ所です。その下流に江戸3番目の橋として1693年に架けられたのが「新大橋」です。大橋の次に架けられたため新大橋と呼ばれました。この橋を渡ると森下町になります。
隅田川の一番下流に深川の大渡しに代わり造られた橋が、永代島に1698年に架けられた「永代橋」です。
富岡八幡宮に参拝する人々で賑わいを見せた門前仲町に続く橋です。
この橋が、江戸最大の橋で、その、美しさと形がアーチ情をしていたため、虹橋と呼ばれ、江戸から深川に行く人々に愛された橋です。現在は、明治や、関東大震災の復興事業により、12橋が架けられています。

●狭間
 塀や櫓には、外部を見て矢・弾丸・石などを放つ小窓がある。狹間(さま)と呼ばれる銃眼である。矢狭間は縦長の長方形、鉄砲狭間は正方形・円形・三角形などさまざまだが、いずれも内側を大きく外側を小さくえぐり、内部からは攻撃しやすく外部は弾丸が飛び込みにくいように配慮している。そのほか、槍をつきだす槍狭間、上下2段につくった二重狭間、石垣のあいだにつくった石狭間などもあり、これらの狹間を塀や櫓に適当にまじえている。

●木戸
 宿場の端(見附付近)に設けられ、木戸と木戸の間(見附と見附の間)が宿場町とされた。木戸のほかに常夜灯が設置されている場合もあった。夜間は防犯などの目的で閉鎖されていた。
木戸にはそれぞれ「番太郎」または「番太」と呼ばれる木戸番が2人いた。老人が多く、番小屋に居住していた。
木戸番は夜の四ツ時(午後10時頃)に木戸を閉めた。これは、盗賊や不審者の通行・逃走を防ぐためで、夜四ツ時以降、用事のある者は木戸番に改められた上で、木戸の左右にある潜り戸から通っていた。その時には必ず拍子木を打ち、その音が次の木戸番への「通行人がいる」という通達となった。これを「送り拍子木」と呼んだ。ただし、医者や産婆など、人の命に関わる急用のある者はそのまま通過できた。

●地本問屋
 地本問屋(じほんとんや)とは、寛文期(1661 - 1673)から江戸で始まった地本を、作って売った問屋。地本(じほん)とは、江戸で出版された大衆本の総称。洒落本・草双紙・読本・滑稽本・人情本・咄本・狂歌本などがあった。草双紙の内訳として、赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻があった。
日本の商業出版は、元和期(1615 - 1624)に京都で始まった。初期は仏書・儒書・史書・軍記・伝記・医書など硬い本に偏り、それらを『物之本』と言ったが、明暦・万治(1655 - 1661)頃からは、俳諧書、浄瑠璃本、仮名草子、御伽草子などの娯楽本も出始めた。江戸時代の本屋は、編集と製本と小売と取り次ぎを行い、古書も扱った。

●問屋場
 問屋場(といやば)は、江戸時代の街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった。
業務の主宰者は問屋と称され、その助役の年寄、さらに人馬の出入りや賃銭などを記入する帳付、人馬に荷物を振り分ける馬指などの者がいた。通常の時は交代で出勤するが、大名行列などの大通行があるときは全員が詰めることになっていた

●助郷
 助郷(すけごう)は、日本における労働課役の一形態。江戸時代に、徳川幕府が諸街道の宿場の保護、および、人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役のことを言う。また、夫役の対象となった村を指して言う「助郷村(すけごう むら、すけごう そん)」も、略されて「助郷」と呼ばれる場合がある。
初めは臨時で行われる人馬徴発であったが、参勤交代など交通需要の増大に連れ、助郷制度として恒常化した。
人馬提供の単位となった村も、これに課した夫役と同様に「助郷」と呼び、「定助郷」「代助郷」「宿付助郷」「増助郷」「加助郷」「当分助郷」などの名があった。当初、助郷村の範囲は宿場の近隣であったが、次第に遠方にも拡大され10里以上の所もあった。
村が人馬を提供できない場合、金銭で代納することになっていた。助郷務めは早朝から夜間に及ぶため、徴発された村民(農民)は宿場での前泊や後泊を余儀なくされる場合が多いなど負担が重く、それにもかかわらず、法定の報酬はわずかであった。そのため村民の中には、助郷務めをきっかけとして宿場女郎にのめり込み、身を持ち崩す者も現れるなど、間接的な被害も大きかった。このこともあり、次第に金銭代納が一般化していった。また、人足の要員としては非合法に浮浪者や無宿者などが充てられることもあった。
制度としては、明治5年(1872年)に廃止されるまで継続していた。

●貫目改め所
 北千住の貫目改所は寛保3年(1743)に敷地内に併設されました。江戸時代には当然ですが貫目御改所(かんめおあらためしょ)と呼ばれました。これは公用荷物を伝馬で運ぶため、重量を測り運賃を決める役所です。
日光街道では宇都宮に北側の改所があって江戸へ来る荷物は宇都宮で江戸から出る荷物は千住で重量を測り運賃を定めました。委託する客は大名や寺院なので町人がそれに文句をつけられないので郡代役所の役人が常駐していたようです。しかしそれでも少なめに計る事が多かったようで越谷や粕壁などの宿場はかなり不満を持っていたようです。4名ほどの職員が居たようですが郡代役所の出役の職員以外は問屋場の職員が兼任していたのではないでしょうか。明治時代になって運送会社の制度が出来るまで使われました。
この宿の中心の役所は明治の町村大合併で千住八町の内、本宿5町と仲町(河原町と橋戸町を含む)が合併して千住町になり足立郡が分割されて東京府に属した部分が南足立郡になるに及んですこし西側の裏に移転し千住町役場(旧足立区役所の分室:不動院隣の部分)と南足立郡役所(旧足立区役所本庁舎の所)となりました。
そしてこの日光街道に面する敷地は民地となりました。一昨年、区役所跡地再開発によるビル建設の前提として発掘調査が行われました。これにより千住地区の建設の経緯を含む多くのことがわかったと思われます。

●関所
 江戸時代には、江戸幕府や諸藩が、軍事・警察上の必要から再び関所を設置した。主な関所には、東海道の箱根関や新居関、中山道の碓氷関や福島関、甲州街道の小仏関、日光街道の栗橋関などがある。 これら関所は幕府直営では無く近隣の大名や旗本などに業務委託されていた。 関所の番人は陪臣身分ではあったが幕府の役人であっても祝儀名目の通行料を支払わされるなど大変な権勢を誇った。
これらの関所を通行しようとする者は、通行手形を提示し、関所による確認を受けた。特に江戸から上方へつながる東海道沿いの関所では、女性と鉄砲の通行が厳しい制限を受けていた。これを「入鉄炮出女」と言うが、江戸在住の大名の妻が密かに領国へ帰国することと、江戸での軍事活動を可能にする江戸方面への鉄砲の流入の2つが、幕府によって厳重に規制されたのである(童謡「通りゃんせ」)。また、芸人や力士などは通行手形の代わりに芸を披露することもあった。関所破りは重罪とされ、磔刑に処せられた。しかし実際には関所役人も関与した宿場ぐるみでの関所破りが常態化していたという。

●高札場
 高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のことです。
高札制度の目的としては、
1.新しい法令を民衆に公示する。 2.民衆に法の趣旨の周知徹底を図る。 3.基本法である事を明示する(違反者は「天下の大罪」であるとして、違反者は死罪などの重い刑に処せられることが多かった)。 4.民衆の遵法精神の涵養を図る。 5.民衆からの告訴(謂わば密告)の奨励(特にキリシタン札(切支丹札)などには高額の賞金が掲げられた)。 6.幕府や大名の存在感の誇示。 などが挙げられる。
主な代表的な高札としては、寛文元年(1661年)の5枚の高札(撰銭、切支丹、火事場、駄賃、雑事)や正徳元年(1711年)の5枚の高札(忠孝、切支丹、火付、駄賃、毒薬)、明治維新とともに新政府から出された五榜の掲示などがある。

●町屋
 町屋は都市の商人・職人などの住居だが、職種や階層などでかなりの違いがあるし、旅籠町・港町などではまた違った特徴も見せている。町屋の一般的な特徴を挙げてみよう。
・道路に面して直接出入り口を設ける。 ・瓦葺の切妻造り、平入りが多い。 ・正面は開放的、格子構え、蔀戸(ししみど)が多い。 ・中二階建て、虫籠窓(むしこまど)・連子窓(れんじまど)をつける。 ・間口が狭く、奥行きが深く、通りに土間に沿って片側か両側に部屋が並ぶ。 ・表に店を構え、座敷・居間は奥になる。
町屋の敷地は、間口が狭く奥行きが深い短冊形で、よく「うなぎの寝床」といわれる。道路に面した主屋(おもや)には店・中の間・座敷が並び、奥に台所・便所・風呂場や蔵などが建つ。間口が狭いのは、間口の大小で町役(税金)がかけられるからである。上層の町屋では道路に面して門構えのある塀や蔵を建てるものもある。
屋根は切妻で平入りが一般的である。密集した町屋で軒を妻入りにすると、雨水が隣家との狭い隙間に流れ落ちて始末が悪いから当然のことで、平入りの妻側にうだつや袖壁をつけることになる。勢い平井りの軒がほぼ水平に連なった町並みの景観が見られることになる。

●商家
 商家では蔵造りも多く見うけられる。耐火性のある土蔵を庭に別棟として建て、家財道具を守る庭蔵が多いが、主屋内に取り込んだ内蔵もみられる。この蔵を店舗に利用したのが蔵造り店蔵である。店は収蔵用の蔵にのように開口部を小さくするわけにはいかないし、蔵の建造費もたいへんだから、蔵造りは二階部分にしつらえるのが普通で、ここに商品を収納したり、使用人の住居にも使われた。家族は奥に建てた別棟の木造家屋に居住するが、これは火災時には焼失するので、一般民家同様に焼家(やけや)とよばれた。
蔵造りは重厚な感じと安全性を誇示して店の信用を高める効果もあるようだが、蔵造りと似たものに塗屋造り(ぬりやつくり)がある。この違いは壁厚が蔵造りは30p、塗屋造りでは10センチ程度で、耐火性の違いである。蔵造りが塗
戸や鉄扉など以外、開口部を極力少なくしているのに対し、塗屋造りは家の側面、軒裏、外壁などを白漆喰で仕上げる。防火性は蔵造りに劣るが、ほとんど二階部分だけに用いられたので、虫籠窓や縦格子をつける町屋の特徴を演出してくれる。

●河岸
 河岸(かし)とは、狭義では河川や運河、湖、沼の岸にできた港や船着場のことである。しかし「魚河岸」などというように、商品売買を行う市場や市場のある地名を意味する場合もある。江戸時代に入ると河岸には問屋を商う商人やその蔵が集まり、一つの商業集落を形成していた。このため広い意味で町村を表す言葉でもあった。現在でもこの名残りで日本各地の地名に河岸とつく場所が多い。▼川の両岸の間の渡し場だった場所(渡船場)や、商人らによって設けられた船着場が多かったが、江戸幕府や諸藩の手により河川の改修工事が盛んに行われた。この際、年貢米やその他物品を、地方から江戸や大阪などへと運ぶために新たな河岸が、それらの領主のもとで設置された。特に、幕府の支配の強かった関東では利根川水系の付け替え工事が行われ(利根川東遷事業)、銚子経由で東北地方から江戸までが接続されるようになった。これに伴い、利根川付近には多くの河岸が設置された。 日光街道における河岸は、日本橋魚河岸、千住河岸、札場河岸(草加)、藤助河岸(埼玉県越谷市)、権現堂河岸(埼玉県幸手市)、乙女河岸などがある。

●追分
 追分(おいわけ)は、道が二つに分かれる場所。もとは「牛馬を追い、分ける場所」を意味したが、そこから街道の分岐点も意味するようになった。また、そこから派生して、こうした地名を冠した日本の民謡の一種(追分節)の略称として用いられることもある。小渕の追分(埼玉県春日部市)、幸手の追分(埼玉県幸手市)、喜沢の追分(栃木県小山市)、追分地蔵(日光市今市)

●道しるべ
 道標(どうひょう、みちしるべ)は、宿場や城下町などへの方向を刻んだ道しるべに石造りのものがある。渡船場や社寺参詣のため各地に多く残る。
 道しるべには、石塔・石仏などの基礎に刻まれたものもあり、また地蔵石仏・庚申塔・道祖神は、路傍に立てられることから、道しるべを兼ねる例が多い。近代以前の道標の多くは公に設置されたものは少なく、大抵はその土地の有力者によって寄進されたものが多く、裏面に寄進者の名や設置年月が刻まれていることが多い。

●一里塚
 一里塚(いちりづか) 大きな道路の側に1里毎に旅行者の目印として設置した塚(土盛り)である。平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われている。室町時代の一休は「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」との歌を詠んでいる。
一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年2月4日(グレゴリオ暦1604年3月4日)、江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令を出した。一里塚の設置は、大久保長安の指揮の元に行われ、10年ほどで完了した。一里塚には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた。また現存する一里塚の多くは道の片側にのみ存在するが街道の両側に対で設置されるのが本来の姿である。
一般的に榎を植えた一里塚が多いが、19世紀末の天保年間の調査による「宿村大概帳」によると、榎が一番多く、過半数を占める。次に松が4分の1強、ついで杉が1割弱で他の栗、桜、檜、樫は数本程度しか植えられていない。
1. 浅草(東京都台東区) 2. 千住(東京都足立区) 3. 六月(東京都足立区) 4. 吉町(埼玉県草加市) 5. 蒲生(埼玉県越谷市) 6. 越谷(埼玉県越谷市) 7. 下間久里(埼玉県越谷市) 8. 備後(埼玉県春日部市) 9. 小渕(埼玉県春日部市) 10. 三本木(埼玉県杉戸町) 12. 幸手(埼玉県幸手市) 13.小右衛門(埼玉県栗橋町) 14. 繰橋(埼玉県栗橋町) 15. 中田(茨城県古河市) 16. 原町(茨城県古河市) 17. 野木(栃木県野木町) 18. 乙女(栃木県小山市) 19. 間々田(栃木県小山市) 20. 小山(栃木県小山市) 21. 喜沢(栃木県小山市) 22. 小金井(栃木県国分寺町) 23. 下石橋(栃木県石橋町) 24. 下古山(栃木県石橋町) 25. 雀宮(栃木県宇都宮市) 26. 江曽嶋(栃木県宇都宮市) 27. 宇都宮(栃木県宇都宮市) 28. 上戸祭(栃木県宇都宮市) 29. 高谷林(栃木県宇都宮市) 30. 六本木・石那田(栃木県宇都宮市) 31. 上小池(栃木県宇都宮市) 32. 大沢(栃木県日光市) 33. 七本桜(栃木県日光市) 34. 瀬川(栃木県日光市)

●坊主
 寺院における僧侶の居室を坊(房)という。その主が坊主(房主)なのだから、寺の有力な僧への尊称であり、御坊などど敬意をこめてよばれることもあった。

●石地蔵
 いわゆる「お地蔵さん」と呼び親しまれているもので、右手に錫杖、左手に宝珠を持っているのが特徴。全国各地で見られる。立像と坐像があり、坊主頭で衣をまとっている姿が一般的。延命地蔵としての役目をもち、冥界(めいかい)にいくものを救うとされた。幼くして死んだ童子の墓石に刻まれることも多い。六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)のどこにいても救いの手をさしのべる六道救済のための六地蔵の一種。▼丸彫り、線彫り、浮き彫りなどの彫り方の違いがある。

●地蔵
 石仏といえば石地蔵と思われるほどに、近世の石仏でもっとも多いのが地蔵である。大人から子どもまで、村人に親しまれた地蔵。古い形式は右手下掌は施無畏印をとる。僧形で左に宝珠、右に錫杖をもつ姿は、地蔵信仰が民間に定着した室町後期から江戸時代にかけ普遍て化していく。この形式は、延命地蔵としての役目をもち、冥界にいくものを救うとされた。幼くして死んだ童子の墓石に刻まれることも多い。いっぽう、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のどこにいても救いの手をさしのべる六道救済のための六地蔵がある。六つの分身として彫刻される六地蔵の石仏は室町時代にはじまり、江戸時代には、じつにさまざまな形状につくられるようになった。延命地蔵には、丸彫り、舟形浮彫り、地蔵和讃のあるもの、墓石に彫られたものなどの基本形がある。
六地蔵は種類が多いのが特徴で、別名六地蔵、舟形浮彫六地蔵、六面幢六地蔵、一石六地蔵、一石二段六地蔵、一石三面六地蔵、舟形二段六地蔵、角柱六地蔵などがある。

●六観音
 真言系では聖観音(しょう)、十一面観音、千手観音(せんじゅ)、馬頭観音、如意輪観音(にょいりん)、准胝
観音(じゅんてい)を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音(ふくうけんさく)を加えて六観音とする。六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道(聖観音)、餓鬼道(千手観音)、畜生道(馬頭観音)、修羅道(十一面観音)、人道(准胝観音)、天道(如意輪観音)という組み合わせになっている。

●聖観音
 観音菩薩には聖観音と変化観音とがある。聖観音はふつうの人間の姿で、独尊でも信仰されるが、勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇侍(きょうじ)となる。宝冠に阿弥陀如来の化仏(けぶつ)をいただくのが特徴である。

●如意輪観音
 立て膝で頬に指を当てた姿態の坐像で、一面二手、四手、六手像が一般的である。如意宝珠と輪宝(りんぽう)をもつ変化観音である。如意輪宝珠は、あらゆる願いを意の如くかなえる宝珠で、財宝をだし、災難・病苦を去られる不思議な力を持っている。輪法は仏教世界における聖王(転輪聖王 じょうおう)が持つ第一の宝で、車輪型の武器であり、軍の先頭を前進し敵を破砕する。釈尊の説く法は輪宝のような力をもって衆生の迷いを破砕するから法輪であり、説法はそれをころがす転法輪である。江戸時代中期以降は、女性の信仰の対象になることが多くなり、月待供養、念仏供養などの主尊として数多くつくられるようになる。

●十一面観音
 多面多臂饒(たひ)の変化観音は、ヒンドゥ教の影響をうけて生まれたが、日本で最初に現れたのは奈良時代の十一面観音である。十一面観音の多くは二臂で、 左手に蓮華をさした水瓶を持つが、頭上に10ないし11の小さな面をいただく。この数字はあらゆる方向(十方)に向かってすべての衆生の悩みを観る徳と力を示したものだといわれている。

●千手観音
 十一面観音は法力(ほうりき)を強めて千手観音を生みだした。千手観音の正しい名称は千手千眼自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)であり、千本の手のそれぞれに一つずつの目をもって人々の苦悩を観じ、千本の手を駆使して衆生済度につとめるのである。また、頭上には十一面もしくは二十七面をいただくのがふつうである。
しかし、千本を刻むのはきわめてむずかしいので、ふつうは42手につくる。本来の2手は中央胸部前で合掌し、ほかに40本の脇手がある

●不空羂索観音
 羂(けん)は獣を捕らえる網、索(じゃく)は縄で、羂索とはインドで戦いや狩猟に用いた端に鐶(わ)がついた投げ縄のこと。不空(ふくう)は願いをむなしくしないの意味だから、衆生をすべて洩らすことなく、慈悲の投げ縄で救ってくれる変化観音である。ふつうは一面三目八臂につくられる。

●六道
 地獄、餓鬼(がき)、畜生、阿修羅(あしゅら)、人間、天上

●馬頭観音
 馬頭観音(ばとうかんのん / めづかんのん)、六観音の一つで馬頭観世音や大力持(だいりきじ)明王とも呼ばれています。観音としては珍しい忿怒の姿をしています。他の観音が女性的で穏やかな表情で表わされるのに対し、馬頭観音のみは目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した忿怒(ふんぬ)相である。怒りが強いほど馬頭観音の人を救う力が大きく、また馬は大食であることから人々の悩みや苦しみを食べ尽くすといわれている。このため、「馬頭明王」とも称し、菩薩部ではなく明王(みょうおう)部に分類されることもある。 また「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。さらに、馬のみならずあらゆる畜生類を救う観音ともされ、六観音としては畜生道を化益する観音とされる。
像容は前述のような忿怒相で体色は赤、頭上に白馬頭を戴き、三面(三つの顔)三目(第三の目)八臂(はっぴ。腕は二つまたは八つもっている。額に縦に一目を有する)とする像が多い。経典によっては馬頭人身の像容も説かれるが、日本での造形例はほとんどない。一面二臂、一面四臂、三面二臂、三面六臂、四面八臂の像容も存在する。立像が多いが、坐像も散見される。頭上に馬頭を戴き、胸前で馬の口を模した「馬頭印」という印相を示す。剣、斧、棒などを持ち、また蓮華のつぼみを持つ例もある。剣は八本の腕のある像に多い。

●十三仏
 十三仏(じゅうさんぶつ)は、十王をもとに日本で考えられた、冥界の審理に関わる13の仏(正確には仏陀と菩薩)である。また十三回の追善供養(初七日〜三十三回忌)をそれぞれ司る仏様としても知られ、主に掛軸にした絵を、法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習が伝えられる。
閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王と、その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地とされる仏である。
不動明王(秦広王 しんこうおう 初七日)・釈迦如来(初江王 しょこうおう 二七日)・文殊菩薩(宋帝王 そうていおう 三七日)・普賢菩薩(五官王 ごかんおう 四七日)・地蔵菩薩(閻魔王 えんまおう 五七日)・弥勒菩薩(変成王 へんじょうおう 六七日)・薬師如来(泰山王 たいざんおう 七七日)・観音菩薩(平等王 びょうどうおう 百か日)・勢至菩薩(都市王 としおう 一周忌)・阿弥陀如来(五道転輪王 ごどうてんりんおう 三回忌)・阿?如来(蓮華王 れんげおう 七回忌)・大日如来(祇園王 ぎおんおう 十三回忌)・虚空蔵菩薩(法界王 ほうかいおう 三十三回忌)

●十九夜
 唯一の主婦だけの講である。毎月宿元で伝承の如意輪(にょいりん)観音像掛軸を掲げて念仏を唱和し、その後自慢の手作りの漬物や煮豆などで茶飲み話しに花を咲かせる。毎年2月に供養があり庚申塔の傍らの十九夜塔にしめ縄を張り供物を供え念仏を唱える。
 このような念仏講も庚申講や山ノ神講とともに近隣の集落に広く伝承されている。昔ながらの数珠繰り(じゅずくり)が行われているところもある。
 十九夜塔と庚申塔の二つの石塔がセットになっているところが多く見受けられる。

●庚申
 庚申ともに金性で冷酷な日だという。天帝の使いがこの夜、天にのぼり人間の悪行を報告するというので、それをふせぐため徹夜した。庚申講・庚申塚の存在がそれを示している。

●庚申塔
 (こうしんとう)人の体内にいる三尸(さんし)の虫が、60日ごとにまわってくる庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命をちぢめられる、とする中国の道教の教えがある。庚申の夜は眠らずに言行をつつしみ、健康長寿を祈念する信仰遊戯が行われることになった。道教の信仰が底流にあり、これに仏教的な信仰が加わって、室町時代には、庚申待ちをする講が結ばれ、月待講による供養塔造立にならった庚申塔造立がはじまる。庚申待の行事や庚申塔造立は、人の延命招福にあるが、村の講中のものが徹夜で酒食をとることから、村民の連帯につながった。
 江戸時代には、造形的に多様な類型をとって沖縄をのぞく全国各地で造立されることになった。路傍の石仏のなかでもっとも親しまれ、現在も庚申講が維持されているところもある。室町時代後期の庚申待板碑には阿弥陀を本尊とするものなどがつくられるが、江戸時代には、悪疫を調状する正面金剛や、道案内にかかわる猿田彦神などを本尊とするようになった。青面金剛の神使である猿が彫られるのは、見ざる、聞かざる、言わざるという謹慎態度を示すためのようである。日月(にちげつ 太陽と月)・鶏(にわとり)・邪鬼(じゃき)を彫刻するものもあり、日待月待信仰、魔性を圧伏する意味からきているものといわれている。庚申塔の造立を月別に見ると、11月が断然多く7月が最も少ない。村や集落の出入り口にある。
庚申塔の時期的変化 @江戸前期のものは、庚申講の結衆の名、舟型、猿だけが刻まれたものが多い。寛文、延宝頃までに造立された。 A江戸中期のものは、青面金剛が刻まれる。豪華で飾りがたいそうにぎやかになる。元禄前後から亨保頃に造立された。 B江戸後期のものは、角形、自然石型が増加する。簡略化され、文字だのものが多くなる。文字そのものにも工夫があって興味深い。
刻まれた像:青面金剛(最多)、猿田彦大神、大日、阿弥陀、薬師、地蔵、不動、山王、帝釈天、観音、道祖神像、仁王、閻魔、一猿、二猿、三猿 文字だけの場合:庚申・庚申塔(最多)、庚申塔供養二世安楽、庚申供養、庚申供養塔、青面金剛、正面王、猿田彦大神、猿田彦命、庚申尊、岐神、大田神、寒神、幸神・孝神、百庚申(号名、題目など) 形式一覧:板碑型、光背型、板状駒形、駒形、山状角柱型、笠付型、丸柱型、立体丸彫り型、自然石型などがある。

●青面金剛
 (しょうめんこんごう) 日本の民間信仰のなかで独自に発展した尊像である。庚申講の本尊として知られ、三尸(さんし)を押さえる神とされる。
道教では、人間の体内には三尸という3種類の悪い虫が棲み、人の睡眠中にその人の悪事をすべて天帝に報告に行くという。そのため、三尸が活動するとされる庚申の日(60日に一度)の夜は、眠ってはならないとされ、庚申の日の夜は人々が集まって、徹夜で過ごすという「庚申待ち」の風習があった。庚申待ちは平安貴族の間に始まり、近世に入っては、近隣の庚申講の人々が集まって夜通し酒宴を行うという風習が民間にも広まった。
庚申講の本尊である青面金剛の像容は、一面三眼六臂で、手足に蛇が巻き付く姿が一般的で、密教の明王像、特に軍荼利明王に通ずるものがある。日本では各地に石造の庚申塔が多数遺り、そこには「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像とともに青面金剛像が表わされている例が多い。

●道祖神
 峠や村境あるいは橋のたもとなどに多く祀られ、別名「さえのかみ」とも呼ばれ、その起源は中国に求められる。外敵や疫病から民を護ってくれるという素朴な民間信仰から生まれた神である。交通安全の意味を加えるとともに、人の一生を旅にたとえて、妊婦、出産、幼児守護、良縁、和合、性病の神としての性格をもつようになった。男女の生殖をとおして、生産神、田の神、山の神的性格をもつなど、その発展変化は複雑である。信仰自体は古くからあったが、石造道祖神は江戸時代のものがほとんどである。
 近世の道祖神は村の辻や町かど、峠路や共同墓地など、近世の石造物は、供養石や墓石として、各地域で目にふれることがある。信仰のあり方、造立者、年代などに目をむけてみたい。

●富士講
 富士講は、戦国時代から江戸時代初期に富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)で修行した角行藤仏(かくぎょうとうぶつ)という行者によって創唱された富士信仰の一派に由来する。享保期(1716〜1735)以降、村上光清(むらかみこうせい)や食行身禄(じきぎょうみろく)によって発展した。
その経緯から、角行修行の地である人穴は聖地と考えられるようになり、碑塔の建立が相次いだ。それが現在約230基見られる碑塔群である。この他隣接する人穴浅間神社は主祭神を角行としており、それらは現在人穴富士講遺跡として知られている。
このように、富士講信者は記念などの意味から記念碑を奉納する文化が存在し、その記念碑を「富士講碑」という。この富士講碑の特徴として「笠印」というマークが刻まれている点が挙げられる。この笠印は講社により異なり、「マルサン」や「ヤマサン」などの種類がある。またこのように多くの講社が存在していたことも富士講の特徴であり、江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどであった。
身禄は角行から五代目(立場によっては六代目とする)の弟子で、富士山中において入定したことを機に、遺された弟子たちが江戸を中心に富士講を広めた。角行の信仰は富士山の神への信仰であるが、それ自体は既存の宗教勢力に属さず、従って食行身禄没後に作られた講集団も単独の宗教勢力である。一般に地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っており、富士山への各登山口には御師の集落がつくられ、関東を中心に各地に布教活動を行い、富士山へ多くの参拝者を引きつけた。特に甲斐国(現山梨県)の富士吉田は北口本宮冨士浅間神社とその登山口(現:吉田口遊歩道)があり、江戸・関東からの多くの参拝者でにぎわい、御師の屋敷が軒を連ねていた(最盛期で百軒近く)。富士講は江戸幕府の宗教政策にとって歓迎された存在ではなく、しばしば禁じられたが、死者が出るほど厳しい弾圧を受けたことはなかったようである。
明治以後、富士講の一派不二道による実行教、苦行者だった伊藤六郎兵衛による丸山教、更に平田門下にして富士信仰の諸勢力を結集して国家神道に動員しようとした宍野半による扶桑教など、その一部が教派神道と化した。
また、明治以後、特に戦後、富士山や周辺の観光地化と登山自体がレジャーと認識されるようになったため、富士登山の動機を信仰に求める必要がなくなり、富士講は大きく衰退した。例えば、人穴富士講遺跡も碑塔の建設は1964年以降は行われていない 。平成18年現在、十数講が活動し、三軒の御師の家(宿坊)がそれを受入れている。

●板碑
 板碑(いたひ)は中世仏教で使われた供養塔である。基本構造は、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものである。頭部に二条線が刻まれる。実際には省略される部位分もある。分布地域は主に関東であるが、日本全国に分布する。設立時期は、鎌倉時代〜室町時代前期に集中している。分布地域も、鎌倉武士の本貫地とその所領に限られ、鎌倉武士の信仰に強く関連すると考えられている。
種類としては追善(順修)供養、逆修板碑などがある。形状や石材、分布地域によって武蔵型、下総型などに分類される。 ちなみに武蔵型とは秩父・長瀞地域から産出される緑泥片岩という青みがかった石材で造られたものをさすが、阿波周辺域からも同様の石材が産出するため、主に関東平野に流通する緑泥片岩製の板碑を武蔵型、四国近辺に流通していたものを阿波型と分類している。また下総型とは主に茨城県にある筑波山から産出される黒雲母片岩製の板碑をさしている。地域、時代により形態や石材にバリエーションがあり、戦前から郷土史家たちの格好の研究材料であった。戦国期以降になると、急激に廃れ、既存の板碑も廃棄されたり、用水路の蓋などに転用されたものもある。現代の卒塔婆に繋がる。

●力石
 神社や寺院の境内に奉納された、大きな河原石をみかけることがある。楕円状の担ぎやすい形状のものが多く、中央に「奉納○○貫(〆)目」の文字が刻まれ、神仏への奉納物であることと、重量を記しているのが通例である。また、村名、人名さらには若者組場合により紀年銘、奉納対象の社名などが刻まれている。

●神社
 【祭神種類】八幡神社(八幡神社、八幡宮、若宮神社、若宮八幡、若宮社、正八幡、宇佐八幡など、)、伊勢(天照皇大神)、菅原道真、稲荷、熊野、諏訪、▼【参拝】(さんぱい)神社や寺院に行って神仏を拝む行為のことである。なお、祈願者本人に代わって参拝するこ    とを代参(だいさん)、祈願した神社や寺院に参詣せずその方角に向って参拝することを遥拝(ようはい)    という。同様の言葉に「参詣(さんけい)」があるが、参拝は拝むことに主眼があるのに対し、参詣は寺    社へ詣でる(行く)ことに主眼がある。ただし、寺社に参拝するためにはそこへ詣でることになるので、    一般には両者は同義の言葉とみなされている。観光や学校などによる社会科見学など、宗教的な意味あい    の薄いものについて「参詣」と言い分けることもある。▼【境内】(けいだい)字の如く境の内で、境の目安として鳥居、注連縄、門、石、岩、池、川、木などの結界の標    があります。この結界ごとにそこを守護する神が居られます。特に鳥居や神門を通るときには正中(真中)    を避け会釈して通らせていただきます。最初の結界(鳥居)では祓い言葉を唱えたり、『お参りにまいり    ました、お祓いの上お通しください。』と言う意味を申し上げて通していただきます。▼    多くの神社には水を引いて橋を造りそこを通ってお参りするようになっていたり、小川や堀よりも小さな    溝程度のものであってもそれを利用して一つの境界が形成されております。これは境界を越えてケガレが    持ち込まれないように、そこを通過することによってお祓いがなされるようになっております。▼【参道】神社の入り口には、必ず鳥居があります。必ず、神社の一番外側にある「一の鳥居」をくぐって、参道へ    と入りましょう。このとき、軽く一礼します。これを「一揖(いちゆう)」と言います。参道を進むとき    は参道の中央を進んではいけません。参道の中央は「正中」といいまして、神様が通る道なので、我々が    通るところではないのです。ちなみに、「一の鳥居」から内側にある鳥居は、順に「二の鳥居」「三の鳥居」    といいます。▼【手水舎】実際に参拝する前に、本来は精進潔斎や禊をしなければならないところですが、現代ではなかなかそう    はいきません。代わりに参道の脇にある手水舎(てみずや)という場所で、身を清めます。手水舎には、    水がためてあり、柄杓が用意されています。そこでの具体的な作法は、こうです。▼    一、右手でひしゃくを取って、水を汲み、それをかけて左手を清めます。▼    二、次に、左手にひしゃくを持ちかえて、右手を清めます。▼    三、再びひしゃくを右手に持ちかえて、左の手のひらに水を受け、その水を口にいれてすすぎます。▼    四、すすぎ終わったら、水をもう1度左手に流します▼    五、使った柄杓を立てて、柄の部分に水を流してすすぎ、元の位置に戻します。▼    この時、直接柄杓に口をつけてはいけません。多くの人が使うものですから当然です。▼【拝礼】いよいよご神前に進み出ます、参拝者がお参りする拝殿の屋根のあるところを向拝と呼びその多くは賽銭    箱があり鈴が下がっております。お賽銭を入れ鈴を鳴らしたらここでも正中を避け、左右のどちらかに下    がってお祈りいたします。まず、一礼をしてお祈り申し上げ最後に二礼二拍手一礼するのが一般的です。▼    お祈りの心得としては、心中(無言)で結構ですから、住所氏名を名乗り今よりお祈りさせていただく旨    を申し上げます。そして、常日頃の御守護この世に命あることを感謝申し上げ、他にお祈りしたい事があ    れば申し添えます。心の清浄を最も大切にしたいときです、家から出てお参りに来た全ての過程が心を浄    めるためのものです。心を浄めればお祈りは自ずからかなうものであります。

●狛犬
 狛犬(こまいぬ)とは、犬に似た想像上の獣の像である。神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿・本堂の正面左右などに一対で置かれている。
日本には仏教とともに中国から朝鮮半島を経て入ってきたために、当時ライオンが生息せず高麗(こま)犬という字が当てられ、のちに狛犬に転じたと言う説もあるが、信憑性は薄い。
一般的には、向かって右側の像は「阿形(あぎょう)」で、角はなく口は開いている。そして、向かって左側の像は「吽形(うんぎょう)」で、1本の角があり口を閉じている。両方の像を合わせて「狛犬」と称することが多いが、厳密には、角のない方の像を「獅子」、角のある方の像を「狛犬」と言い、一対で「獅子狛犬」と称するのが正しいとされている。昭和時代以降に作られた物は左右共に角が無い物が多く、これらは本来「獅子」と呼ぶべきものである

●火の見櫓
 火の見櫓(ひのみやぐら)は、火災の早期発見、消防団の招集、町内への警鐘の発信などに使われていた見張台である。
木造建築が中心の日本では、ひとたび火災が起きると大災害につながる危険性が高く、火災予防と早期鎮火は主要課題であった。特に治安の安定により人口増加が進み建築物が密集するようになった江戸時代以降の市街地では、町火消(後に消防団)など消防体制の整備が急がれ、これに伴い火の見櫓が各地に造られていった。
江戸時代の消防体制は、大きな町ならば単独で、小さな町ならば近隣で組合を設けて結成された町火消を中心に運営されていたが、この町ごとに番屋(番所、自身番とも)を設置し、番人(番太郎・番太と呼ばれていた)を常駐させて24時間態勢で警戒にあたるのが一般的であった。このとき番人が町全体を見渡せるよう、番屋に櫓を組んで一段高いところに見張台を置いたが、それが火の見櫓と呼ばれる。
火の見櫓には一般に、その上部に半鐘が設けられた。これにより町内の火災を発見した番人がすぐに警鐘を鳴らし、火消を招集するとともに町人に火災の発生を知らせる役割を担う即応態勢が取られた。また、町によってはこの半鐘を時報や各種情報発信に用いている場合もあり、町ごとに鐘の鳴らし方が決められ、その長さや間隔によって様々な情報発信に使われていた。
火の見櫓は江戸時代の江戸を皮切りに、火消体制とともに整備されてゆき、昭和初期には全国ほぼ全ての地域に整備されていった。

●城下町の形成
 城下町の構成要素は、城・武家屋敷・町屋・寺社の4つである。城を防衛し、城下を繁栄させるため領主の城を中心とし、重臣・中下級武士・武家奉公人・商人・職人・そして寺社を配置した。藁屋町、魚屋町、紺屋町、鍛治町、呉服町、茶町、畳町、大工町、塗師町、炭町、具足町、鋸町など百種にものぼる職人町があった。

●城
 城とは、土偏に成の字をあわせたことが示すように、土を盛りあげた土塁、砦のことである。「城」は「柵」と同様に「き」と読まれる。古代の城は、まさしく防御の機能をもつ城柵であり、まずは集落を外敵から守るためにきずかれた。律令国家の時代には西日本に朝鮮式山城、東北には城柵が設けられ、中央の支配下にあった。
中世の城は、地方に力を伸ばす武士たちの拠点で会った。彼らは各地に居館をかまえ、緊急事態にそなえて山城をきずいていた。
激しい戦国争乱の中で、城は山城から平山城、そして平城へと発達し、安土城を先駆とする近世的天守が本丸にそびえるようになる。天守は軍事目的の望楼から、領主の権威を象徴するものとして成立し、城は戦闘的目的の防衛施設だけでなく政治目的の領主の領国支配拠点ともなった。幕藩体制が確立すると、太平の世が到来し、江戸幕府の規制により、一国一城制となって多くの城郭が破壊された。城郭建築という点からみれば、以後の城は前代の継続・維持にとどまった。

●城の別名
 江戸城は千代田城、仙台城を青葉城、姫路城を白鷺城ともよぶのはよく知られているが、多くは地名や形状などからつけられた別名をもっている。その例を少しあげておこう。
大阪城(金城・錦城)、岡山城(烏城 うじょう)、彦根城(金亀城 きんきじょう)、名古屋城(金鯱城 きんこじょう)、広島城(鯉城 りじょう)、松江城(千鳥城 ちどりりじょう)、和歌山城(竹垣城)、丸岡城(霞城)、熊本城(銀杏城)、松山城(金亀城)、松本城(深志城 ふかしじょう)、犬山城(白帝城 はくていじょう)など

●茨城・岩城の語源
 『常陸国風土記』によると、茨城郡の地名は黒坂命(くろさかみこと)が穴居の土民を討つために穴に茨を入れたとか、茨で城をつくったからおこったのだという。茨城郡の北に、8世紀の初め石城国がおかれ、まもなく陸奥国に併合されるが、 明治の初めに磐城国となった。石と磐との違いはあるが、石の城があったとか、阿武隈高地を岩とよんだからとか解釈するのがふつうである。

●町屋
 町が発達してくると、家屋が建てこんでくるので、間口を割り当てられて縦長の敷地いっぱいに建てるようになった。江戸時代の町屋は道路に面して店を構えて並ぶので、各戸の裏庭が共同の広場のようになり、井戸や祠を設けたりした。また、城下町で魚屋町・呉服町・大工町などの町名が残っているのは、同業者を集住させた名残りである。

●職人町
 職人町には大工町、石切町、塗師(ぬし)町、樋町、鍛冶町(鍛治町)、紺屋町、大鋸町、研屋町、金屋町、細工町、檜物師町、畳町、瓦町などがある

●商人待ち
 肴町(魚町、魚屋町)、米町(穀町、石町)、塩町(塩屋町)、油屋町、茶町、八百屋町(青物町)、紙屋町(紙町)、呉服町、瀬戸物町、材木町(木町)、博労町(馬喰町)など、交通関係では伝馬町、旅籠屋町、連雀町(連尺町)などがある

●商家の造り
 商家には、通り庭式の間取りが多い。間口の狭い奥深い敷地になるので、各部屋の配置は縦長になる。入口から片方によって通り庭の土間が奥に通じ、それにそって表の店、中の間、座敷と3室がならぶのが一般的である。その奥に中庭があり、さらに台所・風呂・便所や蔵が造られる。

●石仏
 江戸時代に入ると、庶民のあいだに観音や地蔵への信仰がまさしく大衆的な盛行をみせ、多種類の石仏が造立された。寺の本堂で礼拝する対象というよりも、庶民の日常的なくらしをささえるものであり、また、墓標としての石仏となった。これらの石仏は、さまざまな挿話やご利益が付与され、素顔の庶民信仰を感じさせる。各地域でみることができ、場所によっては、同じ種類の仏が集中していることもある。まれには、石工の名が刻まれることもある。
・民間信仰と結びついた庶民的石仏 ・庚申塔、道祖神など路傍の石仏がふえる ・五百羅漢、百代庚申などの大量造仏 ・墓石に刻まれる観音、地蔵の諸相 ・「講」を中心とした集団の存在などが石仏を見るときの着眼点。

●江戸時代の刑罰
 身分別適用刑罰
共通:死刑のうち切腹と斬首以外、遠島、追放、押込、預かり、晒し、市中引廻、闕所、入墨
庶民のみ:手鎖、戸閉、過料、叱り、非人手下、人足寄場
武士のみ:切腹、斬首、改易、役儀取上げ、蟄居、閉門、逼塞、遠慮、隠居、差控
僧のみ:追院、退院、一宗構い、一派構い、蟄居、閉門、逼塞、遠慮、隠居、差控
女性のみ:奴、剃髪 
その他:縁座、連座

死刑
・鋸挽(のこびき):主殺しなど重罪に適用される極刑。市中引き回しの上、首だけ箱の上に出し埋められ二日間
          生きたまま晒し者にされ、千住小塚原か深川鈴ガ森の刑場で磔にされる。見物人に鋸挽きの真
          似事をさせたが本当に行った者がいた。それ以降は横に血の付いた鋸を添える。鋸挽きでは処          刑はしない。
・磔:刑場で刑木に磔にされ、突き手が槍や鉾で二、三十回突き刺す。死後三日間晒される。
・獄門:牢内で処刑後、刑場で罪名を書いた木札とともに首を三日二夜、台木の上に晒す。木札は首が捨てられた
    後も三十日間晒された。十六巻浮沈において滝久蔵の陰謀で印章偽造の罪にされた平松多四郎がこの刑に
    処せられている。刑場で首が晒されているからこそ息・伊太郎が父の首を奪い取ることができた。
・火罪:放火犯に適用される。馬で市中引き回しの後、刑場で刑木に磔にされ火あぶりで処刑される。火あぶりに
    する前に絶命させていた説もある。死後三日間晒される。
・死罪:牢内で処刑され、様物(ためしもの)にされる。財産を没収される闕所が付加刑に付く。
・下手人:過失致死、喧嘩など故意ではない殺人に適用される。死刑の中では最も軽い刑。牢内で処刑される。
     死骸は家族に下げ渡され様物(ためしもの)にされない。
・切腹:武士は体面を重んじ自分の罪を認め自らが裁くという意味で切腹が許されている。武士としての尊厳を保
    ったものである。公事方御定書には未記載のため厳密に言えば刑罰ではない。本人が罪を認めていない場
    合や政治的事件を終息させるため責任をとらせる形で無理やり切腹させることがあるため刑罰に近い性格
    を持つ。二巻・辻斬りの永井十太夫の辻斬りのように他の生命刑に該当する犯罪でも、公にできず内密に
    処理するため自裁である切腹の形を採ることもある。
・斬首:武士のみ適用。様物(ためしもの)にされない。刑場で行われ徒目付か小人目付が検視をする。


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