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 柳田國夫によると
 「旅はタベ、即ちたまはれまたは下さいの意味であって、その生活は非常に古いものであり、また、苦しいものであった。
 農民は孤立の自給生活をして居て与ふる物が当然乏しかったから、旅する者の生活は貧しいものであった。
 …旅する以上はたべたべといって歩かねばならず、乞食に近い生活をして居たものと思われる。」
 また、『秋風帳』のなかに、「誰もが省みなかつた処にこそ、われわれの知りたい事実はのこつて居る。旅の学問には人の顔、何でも無い物ごし物いひなどが、本に書いてないから自分で行って経験しなければならぬ」
【歩く地図でたどる日光街道】は、歩く人にとって道しるべとなるが、自ら歩いて、それぞれの街道を経験してください。

 江戸時代の人々にとって、死を覚悟し旅に出た。
 明治11年に日本を訪れたイサベラ・バードは、紀行文『日本奥地紀行』で、日光から鬼怒川沿いの道について「この道はやがてひどい悪路となり、大谷川の粗い丸石の間をうねうねと通り、木の枝と土でおおわれた一時的な木の橋をしばしば渡るのである。
 …私たちは毎時一哩(マイル)以上は進めなかった。 石の間や深い泥の中をのたうつようにして行くだけだったからである。」
と記録しているのである。

旅人というのは、昔も今も、旅行中の費用をまかなうため多少の現金をもっているのが普通である。
 だから、その金を狙う強盗が出現したとしても不思議ではあるまい。
 江戸日本橋を出て、品川の宿まではともかく、そこをちょっと西に向かって東海道をたどってゆくと、10`も歩かないうちに、こうした強盗が出た。
 こうした強盗、追い剥ぎ、さらにゴマのハエの名で知られるスリ、といった一連の犯罪人は、江戸時代の判例を見ると極刑に処せられていたらしいが、いくら逮捕されても、次から次へとこうした悪党が旅人を襲う。
 身ぐるみ剥ぎ取られるというのはまだいい方で、旅先でおそろしいのは病気であった。土地がかわり、水がかわれば体調をくずし、伝染病や食中毒にかかることもある。肉体的な疲労と精神的な緊張から抵抗力も弱くなり、旅先での病気は決して少なくなかった。

 ということになると、旅人を送り出すがわとしても、心配なことだらけだ。
 送別の宴は、使者を送る儀式に似ていたけれども、誰かが旅行しているあいだは「陰膳(かげぜん)」というものを欠かさないのが日本の旅行文化の一側面であった。

旅立ちの「立つ」という言葉が、千里を帰る「竜」と音がおなじだから、という理由によって、出発の日は十二支の辰の日でなければならぬ。とはいうものの、辰の日であってもそれが仏滅とかさなったりしたらぐあいがわるい。
 だから出発の日取りを決めるだけで大さわぎである。

そのうえせっかく、こうして日取りがきまっても、当日になって海が荒れたりすれば、気象条件がよくなるまでまたなければならぬ。
 そして、いよいよ旅立ち、ということになると、まえの晩から家族の者は寝もやらず、赤飯に鯛の尾頭つき、という祝膳をととのえ、神棚や仏壇に燈明し、お守り袋の中に産土神(うぶすながみ)の土を入れ、これを旅行中、肌身はなさずしっかりと持ってゆく。

 東洋思想の中では、人間が生きていることじたいが、悠久の時の流れの中での、かりの姿であり、それを「旅」にたとえることがおこなわれてきた。つまり、人間が生まれたときに、一生というはかない旅がはじまり、死と同時にそのうたかたの旅が終わるのである。
 さらに、そこに転生輪廻や浄土の思想が加われば、死もまた「生きて帰らぬ死出の旅」ということになるだろう。
 ひとことでいえば、人生すなわち旅なのであり、旅そのものが崇高な宗教的意味を担っているのだ、そうして、そういう旅の思想を象徴するのは、おそらく松尾芭蕉であった。
 あまりにも馴染み深いので、あらためて引用するのもいかがかとおもわれるが、『奥の細道』の序文というべき一節はこんなふうにはじまる…
「月日は百代の過客にして、行きかふ人もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。個人も多く旅に死せるあり。世もづれの年よりか、片雲の風に誘われて漂白の思ひやまず、…そぞろ神の物につきて心を狂わせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず…」
 そして、彼はみずからの住まいを売りはらい、文字どおり「漂白」の人生に旅立ってゆくのである。
 「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」という辞世の句を元禄7年(1694)の10月始めに詠んで、同年12月、大阪で没したのであった。

歩いて旅することは、人生の時間と空間を移動し、かならず出発点と終点がある。
 徳川家康も、「人生の一生は重き荷を負うて遠き路を行くが如し、という訓をのこしているのである。」

 旅ゆく人は、徒歩であろうと列車に乗ろうと、かならず「道」をたどってゆく、そして、そのイメージは、そのまま人間の人生にたいする態度ともかさなりあってゆく。生きる、ということは、時間軸に沿ってある特定の道を歩きつづける、ということである。だからふたたび芭蕉に戻るならば、かれは俳諧という、「この“道”ひと筋に」生きることを人生の哲学として決意していたわけだし、われわれ日本人は、しばしば、生きる態度を「道」に託する。
それは「華道」であり「茶道」であり、あるいは「書道」ぶあり、または「歌道」である。
 それらはふつうお稽古ごと、と呼ばれているものであることが多いのだが、われわれはそうしたお稽古ごとをたんなる「技術」としてとらえることをしない。たしかに、生け花にしてもお習字にしても、それはある意味で手先の「技術」である。
 だが、その「技術」をつうじてわれわれは、それぞれの人間の生きる「道」をもとめているのである。


旅行用心集(1810年 文化7年 八隅芦菴編著)
中公新書 「新・旅行用心集」加藤秀俊著より

「余若きより旅行を好んで四方の国々へ杖曳きしを…」旅行好きであつた。
「…旅の助けに成べきくさくさを思ひ出るに任(まかせ)て書つゝり小冊となし」発行の趣旨を述べている。
「定めえし旅たつ日とり吉悪(よしあし)ハ思ひ立日を吉日とせむ」
「船に乗時に陸(くが)の土を少々紙に包ミ、臍のうへにあてゝをれば舟に酔うことなし」
「硫黄を紙に包ミ、懐中すれば、舟に酔うことなし」など、いま考えれば根拠がないような文章もある。
しかし、「皆人他国へ出れば、物いひ風俗いろいろに替て、己が国言葉に違ふ故に、聞慣、見慣れぬ中(うち)はおかしと思ふなれど、又先の人も此方をおかしと思ふハ必然なり。しかるを心得ちかひして、他国の風俗、ものいひ等笑(わらひ)ひなふること、誤としるべし」


「旅行用心集」
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