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地図でたどる日光街道TOP > 地図検索 > 32.利根川橋〜中田(説明

仲間と出会う、感動と出会うクラブツーリズムの旅/東京23区発バスツアー

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日本橋から日光東照宮までの街道沿いで紹介したい宿泊施設や食事店がありましたらご連絡ください。

第七次栗橋宿〜第八次中田宿  31.栗橋〜利根川橋  32.利根川橋〜中田  ⇒中田宿〜古河草加宿へ

利根川橋から中田まで
利根川に架かる長い利根川橋を渡りながら、振り返って右後ろを見ると、ライフと黒とオレンジ色のボーリング場「ラウンドワン」が遠くに見える。橋から左前方を見ると、遙か彼方に高層マンションが見える。ここが今から行く古河宿の中心部です。左前方の利根川の河原に中田宿があったところらしい。本陣、問屋場、旅籠、茶店がありほとんどが農家との兼業であったらしい。橋を渡り終えると信号があり、ここが東京から56kmの道標。日光道中は4号線を左に曲がり一方通行の道を下っていく。160mほど行くと鍵方に右曲がりしている。曲がり角の正面に「房川渡と中田関所跡」の案内板がある。日光街道で唯一の関所と、渡船場があった。房川(ぼうせん)戸は、中田と栗橋の間を流れの部分で、渡船場を「房川渡」と呼び、関所を「房川渡中田御関所」といった。ここから歩いて180mほど行くと「利根川堤」の信号。交叉点の左手前に「西山運輸」、右に「さかい歯科」の看板。左奥に火の見櫓がある。その火の見櫓の手前に「中田宿」の案内板がある。350mほど歩くと、左に「鶴峰八幡神社」、その奥に栗橋で亡くなった静御前のお墓がある「光了寺」、先に「円光寺」がある。右に「石塚モータース」があり、その少し先に「本願寺」。すぐ左に「顕正寺」がある。道路正面に歩道橋があり、右に古河第四小学校。この道は原中田線という。見通しのいい直線道路。



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栗橋宿から中田宿 利根川橋(茨城県古河市)〜中田宿(茨城県古河市) 2487m 31分

中田宿(なかだじゅく)
 江戸時代の日光街道(日光道中)における下総国の宿場。現在は茨城県古河市中田地先の利根川河川敷に相当する。日光街道の江戸・日本橋から数えて8番目の宿場である。
 古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つである。南(江戸側)から順に、下町(下宿)・仲町(仲宿)・上町(上宿)、および船戸町から構成された。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、中田宿の距離は記載がない。宿高456.279、
町並4町50間、人数403人(男169人、女234人)、家数69軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠6軒(大0,中0,小6)、問屋場1軒、宿建人馬25人25疋であった。
 利根川の河畔にあり、対岸の栗橋宿との間を渡船が結んだ。両方を合わせて、栗橋・中田宿と呼ばれ、1つの宿駅とされた。
大正元年(1912年)、利根川改修工事により宿場地が河川敷になるため、町の大半が川から離れた日光街道・中田松原に移転を始めた。このときの河川改修工事は昭和5年に竣工したが、その後も洪水は頻発したため、追加工事が行われることになり、昭和20年代に残された上町(上宿)もすべて移転した。Wikipediaより

宿高(しゅくだか)とは 農作物などを米の取れ高に換算して、村や町宿場の規模を表示したものです。単位は石・斗・升・合・勺(しゃく)で、1石は10斗、、1斗は10升、1升は10合となります。1合は10勺となります。1升は約1.8?(一升瓶1本分)で、1石は一升瓶100本分の量となります。なお、1俵はおおよそ3斗5升のお米を入れました。

町(ちょう)と間(けん)とは 町と間は、長さを測るときの単位のことです。1町は約109.09mとなります。1町は60間です。1間は6尺(しゃく)で、約1.82mになります。なお、町・間・尺は時代によっても少しずつ長さが異なりました。

本陣・脇本陣・旅籠とは いずれも旅館です。本陣・脇本陣は、参勤交代の大名や勅使・公卿といった貴人が宿泊しました。本陣が利用できないときには、かわりに脇本陣が利用されました。一般旅人が宿泊する旅籠があります。旅籠は、食事つきの宿泊施設です。

問屋場(とんやば)とは 問屋(といや・とんや)ともいい、次の宿場まで乗り継ぐ人足や馬を用意したり、公用の出張者の旅館手配など、宿場業務を取り扱う施設のことをいいます。

宿建人馬(しゅくだてじんば)とは 参勤大名や役人などが通行するときに、宿場で用意する人足(にんそく)
と馬の最大数のことです。足りない分は助郷(すけごう)として、周辺の村々から調達しました。本来50人50疋を割り当てられていましたが、文化5年(1808)に35人35疋に変更されました。

鶴峯八幡神社
 養和元年(1181年)の創建と伝えられる。中田宿の鎮守。利根川の河川改修工事のため、町とともに現在地に移転した。Wikipediaより

光了寺
 もとは武蔵国高柳村(現久喜市高柳)にあり高柳寺と称したが、建保年間(1213年〜1218年)に光了寺と改め、のちに中田に移転した。静御前ゆかりの寺院。Wikipediaより

松並木
 中田宿と古河宿の間は松並木になっていた。安政2年(1855年))の清河八郎による紀行文には、「仙台道中で最もきれいな並木…、並木の松の間から古河の天守閣が眺められ、また富士山も時には雲の上に姿を顕し…」とある。また、『日光駅程見聞雑記』(文政6年(1823年))にも、「東海道にもこれほどきれいな松並木はない」と記されている。ただし、道路拡幅工事や戦時中の松根油採取のために、現在その面影は残っていない。Wikipediaより

助郷の村々
各宿場町では、参勤交代や公用の人や物を運ぶために人馬を常備する必要があったが、これを助けるために近隣の村々が定助郷に指定された。中田宿の場合は、中田新田・鳥喰・坂間・新久田・茶屋新田・大曾・飯積である。Wikipediaより

房川渡(ぼうせんわたし)と中田関所跡(なかだせきしょあと)
 江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から、大河川には橋をかけることを許さず、また、交通上の要地には関所を設けていた。当地は日光街道の重要地点で、街道中唯一の関所と渡船場の両方があったところである。
 利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流の部分を『房川(ぼうせん)』(理由は諸説あって不明)とよび、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。やがて、関所は対岸の栗橋側の水辺に移されたので、普通には、『栗橋の関所』の名で知られていた。
 四人の番士が交代で、関所手形を改め、旅人や荷物を厳しく監視した関所は、明治2年(1869)の廃止令でなくされたが、二艘の渡し船と五艘の茶船を操る船頭たちによって、およそ40間(約70m)の流を渡した渡船場の方は、大正13年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。 平成元年3月

中田宿
 江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋の下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並みとなったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。
 中田宿の出発は、江戸幕府が日光街道を整備する課程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成させたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を15日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。
 本陣・問屋(といや)や旅籠(はたご)・茶店(ちゃみせ)などの商家が、水辺から北へ、船戸(ふなと)、山の内、中宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲(かね)の手に折れながら現在の堤防下まで、延長530mほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。 
 天保14年(1843)の調査では、栗橋宿404軒に対し、中田宿69軒となっている。ただし、118軒とする記録もある。 平成19年1月 古河市教育委員会 

鶴峯八幡神社(つるがみねはちまんじんじゃ)
 社伝によると、鎌倉時代に源頼朝もしくは二代将軍源頼家が、鎌倉の鶴岡八幡宮の神主高橋氏をもって創建させ、のち天福2年(1234)下総国一の宮である香取神宮もまつって、八幡と香取の相殿(あいどの)にしたといい、中世には栗橋方面にまで勢力をもった有力な神社であった。
 もとの名を上伊坂(かみいさか)八幡宮と称し、上伊坂の地にあったが、江戸時代初期に、中田と上伊坂の村民によって、宿場町としての中田宿が現在の利根川橋下の河川敷に造成されたおり、その東方の古墳上にまつられ、長くこの地の守護神であった。さらに大正元年(1912)利根川の改修工事による中田の町並みの移転にともなって、現在地に移座した。
 宝物には鎌倉時代に書写されたとする市指定文化財の法華経がある。さらに、永禄7年(1564)の紀年銘を持ち水海(みずうみ)城主梁田(やなだ)氏寄進と伝えられる鰐口(わにぐち)があったが、残念ながら現存していない。また少なくとも享保(きょうほう)年間(1716〜36)には、近郷近在の神官によって奉納されていたと伝えられる太々神楽(だいだいかぐら)が市の無形文化財に指定されている。
 平成19年1月 古河市教育委員会

鶴峯八幡神社の由来
 鶴峯八幡神社の祭神は、誉田別命(はんだわけのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)
二神である。創建は養和元年8月(1181)であり、香取宮と天福2年9月合社相殿となる。
 当社は治承4年9月源頼朝が奥州征討の折り此の地に立寄り軍利守護を祈願したところ、が開け御神徳を感じその宿願により、相模国鶴岡八幡宮の分霊を上伊坂(現今の中田)に勧請(かんじょう)した。頼朝の侍従で鶴岡八幡宮の詞官高橋摂津守(せっつのかみ)の次男鴨次郎吉元を、当社の初代神主と定め、後社名が鶴峯八幡神社となる。その時4町の地を以って境内地となし、その上、神領五百石(上伊坂、下井坂、松永、間鎌の地)を寄付せられ、周囲の村々氏子の人々の信仰を集めた。明治42年2月小中田香取宮を本殿香取宮に合霊し、稲荷社は、境内社丸山稲荷社へ合霊する。後明治44年9月利根川河川川改修時、河川敷地に当たるため、現在の中田大道西の地に移転鎮座する。その時、紅葉稲荷社を境内地丸山稲荷社に合霊する。

古河市無形文化財指定
永代太々神楽
 当社に伝承されている永代太々神楽の起こりについては、伝えられるところによりと、享保10年(1725)3月10日五穀豊穣、家内安全、社会の安寧等の祈願のため始められたという。当初は、近郷近在の神官の各神社持ち回りで奉納されていた神楽も大正時代に入ると、舞人の高齢化と後継者不足のため継続困難となり、維持保全のため、宮元地区であった旧「山の内」の小字に居住する有志の人等により、昭和4年12月1日神楽保存会が結成され、維持保存されている。

(武家時代文化ライン)
光了寺
 光了寺は昔、武蔵国高柳村(埼玉県栗橋町)にあって、高柳寺といい弘仁年間(810〜823)弘法大師が創建したと伝えられている。その後、建保年間(1213〜○○○○)に親鸞聖人が越後より常陸に移ってきたとき、当時の高柳寺の住職であった大僧都法印円崇興税が親鸞の弟子となり、法名を西願を賜り改修して浄土真宗厳松山聖徳○○○寺と号した。現在、当時は、○○○週大谷派の寺院として○○○旧跡となっている。なお○○○文治5年(1189)○○○が当寺に帰依して○○○もなっている。
 寺宝として、木造聖○○○称松葉の太子)や静御前○○○皇からいただいた思賜の○○○蛙螟龍(あまりりゅう)の舞衣などがある。 古河市

円光寺
本願寺
顕正寺
香取神社
静御前
助郷
松並木
茨城県
古河市

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