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地図でたどる日光街道TOP > 地図検索 > 31.栗橋〜利根川橋(説明)
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日本橋から日光東照宮までの街道沿いて紹介したい宿泊施設や食事店がありましたらご連絡下さい。

第七次栗橋宿〜第八次中田宿  31.栗橋〜利根川橋  32.利根川橋〜中田 

栗橋から利根川橋まで
右にクリーニング店、新井商店があり、道は少しずつ上り坂になっている。三叉路の右、人の家の中に会津見送り稲荷がある。この道の正面には4号線に接するガソリンスタンドが見える。下り坂の三叉路を左に進む。約280mほどで、道がさらに狭くなる。国道125号線の高架下のトンネルをくぐっていく。トンネルを抜けて川のそばにほうろく地蔵の道標。川の右側の狭い路地を入って行くと、4号線からきた2車線の大きな道に出る。この道はここで直角に曲がってい。ここを直進すると右に焙烙地蔵がある。右に顕正寺があり入口に道標がある。左には常信寺、深広寺がある。205mほど行くと、「東三丁目」信号があり、左に940mほど行くとJRと東武線の栗橋駅となる。栗橋駅を左に行ったところに、静御前の墓がある。東三丁目信号から210mほどで「駅入口」の信号がありこの道が栗橋停車場線で静御前の墓に行く。このあたり古民家が所々にあるが、かなり古びている。さらに羽生外野栗橋線を380mほど行くとつきあたりが八坂神社、香取神社がある。「八坂神社前」信号を右に曲がり坂を上って左の土手中腹に栗橋関所址碑が建っている。利根川に架かる長い利根川橋を渡ると中田宿に入る。



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栗橋宿から中田宿 川通神社(埼玉県久喜市栗橋町)〜栗橋宿〜利根川橋(埼玉県久喜市栗橋町) 1944m 24分

栗橋宿(くりはしじゅく)
 江戸時代に整備され、栄えた宿場町の一つ。現在の埼玉県久喜市栗橋地区に相当する。日光街道の江戸・日本橋から数えて7番目の宿場であるが、当宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿合わせて一宿とする記述も有る。
 この地は利根川の渡河地点にあたり、日光街道から江戸への出入りを監視する関所が置かれ、江戸の北方を守る要地であった。街道が整備される以前に町は無く、日光街道は手前の幸手宿から北東に向かった栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に渡船場があり、”房川渡し・栗橋”とよばれていた。慶長年間に地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、現在の栗橋地区となる上河辺新田が開墾された。1616年(元和2年)に街道筋が付け替えられ、現在地に正式な宿駅として栗橋宿が成立した。
 天保14年(1843)の『日光道中宿村大概帳』によれば、栗橋宿の距離2里3町、宿高689.279、町並10町30間、人数1741人(男869人、女872人)、家数404軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒、問屋場1軒、宿建人馬25人25疋であった。
 なお、前述の通り栗橋宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、荷物や人夫の継ぎ立てを行う問屋の業務は半月毎の交代制であった。また、本陣を代々務めたのは栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介から続いた池田家で、現在も本陣跡地に健在である。その他の町並みも駅より比較的離れたところにあるためか旧家が所々に残り、旧宿場町の面影を感じさせる。Wikipediaより

宿高(しゅくだか)とは 農作物などを米の取れ高に換算して、村や町宿場の規模を表示したものです。単位は石・斗・升・合・勺(しゃく)で、1石は10斗、、1斗は10升、1升は10合となります。1合は10勺となります。1升は約1.8?(一升瓶1本分)で、1石は一升瓶100本分の量となります。なお、1俵はおおよそ3斗5升のお米を入れました。

町(ちょう)と間(けん)とは 町と間は、長さを測るときの単位のことです。1町は約109.09mとなります。1町は60間です。1間は6尺(しゃく)で、約1.82mになります。なお、町・間・尺は時代によっても少しずつ長さが異なりました。

本陣・脇本陣・旅籠とは いずれも旅館です。本陣・脇本陣は、参勤交代の大名や勅使・公卿といった貴人が宿泊しました。本陣が利用できないときには、かわりに脇本陣が利用されました。一般旅人が宿泊する旅籠があります。旅籠は、食事つきの宿泊施設です。

問屋場(とんやば)とは 問屋(といや・とんや)ともいい、次の宿場まで乗り継ぐ人足や馬を用意したり、公用の出張者の旅館手配など、宿場業務を取り扱う施設のことをいいます。

宿建人馬(しゅくだてじんば)とは 参勤大名や役人などが通行するときに、宿場で用意する人足(にんそく)
と馬の最大数のことです。足りない分は助郷(すけごう)として、周辺の村々から調達しました。本来50人50疋を割り当てられていましたが、文化5年(1808)に35人35疋に変更されました。

房川渡と栗橋関所
江戸幕府は江戸の街を防衛する理由から、大河川に橋を架けることを禁じたため、日光街道の利根川渡河には房川渡(ぼうせんのわたし)と呼ばれる舟渡しが利用された。この渡し場に置かれたのが栗橋関所で、中山道の碓氷関所や東海道の箱根関所、甲州街道の小仏関所と同様に、「入鉄砲に出女」を取り締まっていた。栗橋関所は正式には「房川渡中田御関所」と呼ばれ、当初は中田宿側に関所が置かれていたが、後に対岸の栗橋宿側に移され栗橋関所が通称となった。
1869年(明治2年)、明治維新の最中に栗橋関所は幕府と共に姿を消した。なお、房川渡は東京から東北方面へ向かう交通路として明治以降も存続したが、1924年(大正13年)の利根川橋完成によってその役割を終えた。Wikipediaより

会津見送り稲荷内殿及び御神体
 土地の名物が幸手草もち、栗橋粟もち、古河ごかぼ、といわれた頃、粟もち屋のあった下河岸付近で道に迷った会津藩士を白髪の老人が現れ助けたといわれ、その老人はお稲荷様であったという伝説があります。本尊は狐にまたがっている変わったもの。現在、社の前には会津藩士の奉納した手水鉢が残っています。 栗橋町発行パンフレット「くるりと栗橋」より

栗橋町指定文化財 炮烙(ほうろく)地蔵
 昭和53年3月29日指定
 むかし、現在の利根川に関所が設けられ、人の通行をきびしく取締っていた時代、関所を通らないで渡った者、あるいは、渡ろうとくわだて事前に発見された者は、関所破りの重罪人として火あぶりの刑に処せられたと伝えられている。処刑場も地蔵尊のある現在の場所であったという。
 こうした多数の処刑者を憐(あわ)れみ、火あぶりになぞらえて、その後土地の人が供養のため炮烙地蔵として祭ったものである。今も炮烙に名前を書き入れ奉納されているのが見うけられる。焙烙というのは薄赤の低温で焼かれた土器の日用雑器のことで、お堂の中に名前を書いて奉納してある。また、エボ地蔵ともいわれ、あげた線香の灰をエボにつけると治る、といい伝えられている。 栗橋町教育委員会

梅澤太郎右衛門の墓
 元和8年(1622)二代将軍徳川秀忠が日光社参の時、暴風のため利根川が満水となり船橋が壊れそうになった際に、太郎右衛門が人夫を率いて水中に入り命がけで守り災害を防いだ功績により、伊奈半十郎忠治より貞宗の刀と扇子を賜ったと伝えられています。栗橋町発行パンフレット「くるりと栗橋」より

池田鴨之介之墓、並木五郎兵衛の墓
 新編武蔵風土記稿によれば、池田鴨之助と並木五郎兵衛は、幕府に願い出て、慶長年間(1596〜1614年)に、下総国栗橋村(現茨城県五霞町元栗橋)より、村民を引き連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。鴨之助は本陣役を務め、このまま幕末まで続いた。 栗橋町発行パンフレット「くるりと栗橋」より

常薫寺 大黒天(知恵・有福・蓄財)
 河岸の寺とも呼ばれ、開山は日蓮聖人の弟子日常聖人といわれ、当地に建立した法華堂が基となりました。インドでは、摩訶迦羅といい、仏法を守る神です。日本では、伝教大師が、八世紀に寺の安穏を祈って比叡山延暦寺の台所に祀ったのが最初です。大黒頭巾をかぶり知恵の詰まっている大きな袋をもち財宝が出る打出の小槌を持って、米俵に乗っています。 久喜市栗橋観光協会ホームページより

顕正寺
 鎌倉時代の寄木造りの仏像で、像高79cm、玉眼で錆下地に漆箔を塗布、内刳りを施され、螺髪を彫り出し、肉髷珠と白亳株には水晶が装入されています。当時の仏師の技を確認することのできる貴重な仏像です。
栗橋町の開発者で栗橋町指定文化財の池田鴨之介の墓がある。 栗橋町発行パンフレット「くるりと栗橋」より

顕正寺 毘沙門天(厄よけ・勇気・授福)
  開基は、茨城県小川町の幡谷信勝で、十六代善了の時、古河市中田の阿弥陀堂に移り顕正寺と改めました。栗橋地域の開発者、池田鴨之助の招請により、慶長19年(1614年)に善了は寺基を当地に移しました。 インドの神で、仏法守護の四天王の一つの多聞天です。この姿は、厳しい顔をされ七法荘厳の鎧を着けています。この神は魔を除き、勇気を与えてくれます。手にもつ宝塔は、財珍宝を湧き出し、善人に与え、宝棒は煩悩を打ち砕きます。 久喜市栗橋観光協会ホームページより

浄信寺 寿老人(長寿延命・除難)
 帰命院という庵室を乗譽玄徹上人が寺とし、日譽源貞上人が元和元年(1615年)に浄信寺に改号したと伝えられています。寿老人はその名の通り長寿を象徴する神様で、もうでる人々の長寿を願う神です。
 また樹老人と書かれ、樹木の長い生命性を表し、長く生きることを意味します。よく絵画には、長寿を表すための鹿を伴っています。また団扇を持っている姿もよく見られます。 久喜市栗橋観光協会ホームページより

深廣寺 
六角名号塔
 深広寺2代目住職単信上人が伊豆大島より大石を船で持ち帰り、承応3年〜明暦2年(1654〜1657年)の間に千人供養塔を20基建立。その後、9代目住職法信上人が三千人供養塔を1基建立したものです。
単信上人像
 江戸時代の作で、二代目住職自作の像と伝えられています。頭部、体幹部等が別材からなる寄木造りです。全身に彩色がほどこされ、像高(座高)75.8cm、円頂、玉眼、胸前で合掌し、椅子に座し、厨子に納められています。栗橋町発行パンフレット「くるりと栗橋」より 

深廣寺 恵比須(商売繁盛・産業降盛)
 並木五良平が開基し、広誉上人が元和元年(1615年)に開山した寺である。以前は間鎌にあった寺を、ここに移したともいわれています。夷美寿、蛭子神、海老酒ともいい、福神の中でも、日本古来の神ですが、もとは、異郷から漂着した神であるといわれています。神話では、大国主命の子、事代主命であるとも言われ、この神は日本の各地で、航海、漁業、商売の守り神としてまつられています。 久喜市栗橋観光協会ホームページより

栗橋町指定文化財
 静御前の墓
 昭和53年3月29日指定
 静御前は、磯の禅師の一人娘として仁安3年(1168)に生まれたといわれ、白拍子と呼ばれる美しい舞姫に成長いたしました。
 干ばつが3年も続き、加えてその年も長い日照りで農民が大変に困っておりました。そこで後鳥羽上皇が寿永元年(1182)、京都神泉苑に舞姫100人を選び、「雨乞いの舞」を命ぜられました。最後に静が舞い始めると空がにわかに曇り、激しく雨が降り出し3日3晩も降り続いたといいます。後鳥羽上皇は、静が15才でありながら類希(たぐいまれ)な才能を賞嘆(しょうたん)され、褒美に「蝦蟇龍(がまりゅう)」の錦の舞衣(まいぎぬ)を賜りました。この衣は現在、古河市中田町の光了寺に保存されております。
 平氏追討に功績のあった義経の寵愛を受けた静が初めて義経に出会ったのもその頃のことでした。その後、義経は兄頼朝の不興(ふきょう)を蒙(こうむ)り、奥州平泉の藤原氏を頼って京都を落ちのびました。静は義経を慕って京都を発ち、平泉へ向かいましたが、途中の下総国下辺見(しもうさのくにしもへんみ)付近で「義経討死(うちじに)」の報を耳にして悲しみにくれ、仏門に入り義経の菩提を弔いたいと再び京都へ戻ろうとしました。重なる悲しみと馴れぬ長旅の疲れから病気となり、文治5年(1189)9月15日、この地で死去したと伝えられています。
 侍女琴桂がこの地にあった高柳寺に遺骸を葬りましたが、墓のしるしの無いのを哀れみ、享和3年(1803)5月、関東郡代中川飛騨守(ひだのかみ)忠英が「静女之墓(しずじょのはか)」の墓碑を建立したものと考えられています。また、境内にある「舞ふ蝶の 果てや夢みる 塚の蔭(かげ)」という歌碑は、江戸の歌人座泉の作を村人が文化3年(1806)3月に建立したものであります。
?公式には、静御前の生没年は、はっきりしていません。ここに記されている内容は当地の伝承をもとにしています。
 栗橋町教育委員会 静御前遺跡保存会

静桜(しずかざくら)
 静桜は、静御前ゆかりの花であり、数の希少さとともに学術的にもきわめて貴重な桜です。里桜の一種といわれていますが、ソメイヨシノのような一般の桜にくらべ、花期の訪れが遅く4月中旬に開花します。花は、5枚の花弁の中に、旗弁といって、おしべが花びらのように変化したものが混じる特殊な咲きかたをします。
 このことから、開花した様子は、一見、八重と一重が混じったように見え、ほかの桜とは趣を異にした風情をみせています。この桜の原木は宇都宮市野沢にあります。地元の伝承では、奥州へと向かった静が、義経の討死を知り、野沢の地に一本の桜を植え菩提を弔ったのがその名のおこりといわれています。その接ぎ木苗が、(財)日本花の会から寄贈され、この墓所に植えられました。
 平成5年の静御前墓前祭で、日本花の会により墓所の桜から穂木が採られ、芽接ぎが行われたのをきっかけに、栗橋町では静桜を町のシンボルとして大切に育て、その数を増やすことを目的に「静桜の里くりはし」づくりを進めています。
【静御前墓前祭】〈主催 静御前遺跡保存会〉
 毎年静御前の命日に当たる9月15日に行われています。
【静御前祭】〈主催 栗橋町駅前商店街事業協同組合〉
 毎年10月中旬に開催されます。若者たちが静御前と義経に扮し、豪華な時代絵巻が呼び物。

福寿院 福禄寿(福徳・人望・長寿)
 栗橋の宿場造成と共に創建された寺院で、鎮守として午頭天王社を祀り、のちに八坂神社に分離されるが、その頃は当寺持ちで、別当として明治の神仏分離までその職にあたりました。 長頭にして、美しいひげをたくわえ年令は数千歳にも及ぶ神で、命を守る神です。
 中国の人達は、人生の三大目的である福(福徳)禄(人望)寿(長寿)を神格化しました。この象に祈る人は、心豊で、安らかな人生を送ることを願って、長寿のシンボルである鹿を伴って刻まれています。 久喜市栗橋観光協会ホームページより

○経蔵院
○香取神社
○八坂神社

地蔵菩薩像(経蔵院)
 東日本では珍しい漆乾仏です。静御前の持仏で、材料に使われた和紙は、静と義経の恋文と言い伝えられてきましたが、後に江戸時代の作と確認されました。栗橋町発行パンフレット「くるりと栗橋」より

関所番士屋敷跡(せきしょばんしやしきあと)
 所在地 栗橋町大字栗橋字三ッ俣
 関所番士屋敷は、寛永元年(1624)に栗橋関所番士の住まいとして、江戸幕府が設けたものである。
 関所番士の定員は4人で、これを2組に分け、毎日明け六つ(午前6時)から暮れ六つ(午後6時)まで、二人一組5日間交代で勤務していた。
 維新期最終の番士は、加藤、足立、島田、富田の四家であった。手当は二十俵二人扶持(ぶち)であったが、足立氏は故あって四人扶持に増量されていた。一人扶持は、一日五合の割合で、二人扶持は約十俵に当たる。扶持は、幸手宿本陣中村家から送米されていた。
 ここ足立家は、現存する貴重な関所番士宅で寛政12年(1800)足立十右衛門が五人目の役人として金町松戸御関所から転勤し、移り住んだものが始まりという。
 加藤家、島田家も現存しているが、富田家は、明治2年の関所廃止とともに東京へ移転している。
 各家屋敷とも高く盛り土し、いずれも約1400uである。
 なお、番士の墓は、常薫寺、深広寺にある。 昭和63年3月 埼玉県 栗橋町

栗橋関所跡『防川渡中田(ぼうせんわたしなかだ)・関所』
 埼玉県指定旧跡 昭和36年9月1日指定
 江戸幕府は、交通統制と治安維持のために、主要な街道が国境の山地や大河川を越す用地に関所を設け、特に「入り鉄砲(しりてっぽう)と出女(でおんな)」を取り締まった。
 栗橋関所は、日光街道が利根川を超す要地に「利根川通り乗船場(とねがわどおりじょうせんじょう)」から発展した関所の一つで『房川渡中田・関所』と呼ばれた。東海道の箱根、中山道の碓氷と並んで重要な関所であったという。
 関所の位置は、現在の堤防の内側で利根川のほとりにあり、寛永年中に関東代官頭の伊奈備前守が番士四人を置いた。以後、番士は明治2年関所廃止まで約250年間、代々世襲で勤めた。
 関所跡の記念碑は大正13年に旧番士三家・本陣・宿名主(しゅくなぬし)の発起(ほっき)で町内と近在の有志により、徳川家達(とくがわいえさと)の揮毫(きごう)で、旧堤上(ていじょう)に建碑(けんぴ)され、数度の堤改修により、建設省利根川上流工事事務所の配慮で、今回ここに移設された。

【房川渡(ぼうせんわたし)の由来】
往古、奥州街道は、下総台地の五霞町元栗橋(下総国猿島郡・栗橋村)を通っていて、その「幸手=元栗橋」の乗船場を『房川渡・栗橋』と呼んだ。後、利根川の瀬替えなどで、街道が付け替えられ「栗橋=中田」に乗船場が生まれ『房川渡・中田』と呼ばれた。一説に房川とは、元栗橋に宝泉寺という法華坊があり、『坊前の渡し』と呼んだことから、坊前が房川と記され、川と渡しの名になった。(略図あり)

日光社参の行列
将軍家慶一行が栗橋・中田間の利根川に舟橋をかけて渡る場面を描いた錦絵。舟の数は51艘とある。(池田氏蔵)(案内図あり)
関所模型は栗橋町総合文化会館に展示してあります。 昭和60年7月 埼玉県教育委員会 栗橋町教育委員会

北広島地蔵

栗橋関所跡
栗橋宿本陣
八坂神社
香取神社
栗橋宿脇本陣跡
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