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地図でたどる日光街道TOP > 地図検索 > 13.蒲生〜南越谷説明

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日本橋から日光東照宮までの街道沿いで紹介したい宿泊施設や食事店がありましたら連絡下さい。

第二次草加宿〜第三次越谷宿  11.草加宿〜松原団地  12.松原団地〜蒲生  13.蒲生〜南越谷  14.南越谷〜越谷
 

蒲生から南越谷まで
小さな久伊豆神社が左手にあり、そこから90mほど行くと右側に清蔵院がある。再び「旧日光街道」(足立越谷線)に合流する。ここから道路を横断し左側を歩く。道路右側が蒲生本町、左側が蒲生西町。しばらく行くと右側に高い煙突が見える。お風呂「蒲生温泉」です。清蔵院から350mほど歩くと右側に中央住宅がある。ここが「蒲生西町」交叉点。さらに220mほど行くと、蒲生中央通りとの「蒲生駅入口」交叉点があり、左に265mほど行くと東武鉄道蒲生駅に至る。その信号からすぐ信号があり、左に蒲生駅商店街で蒲生駅へと通じている。右側は東武こしがや自動車教習所、左は蒲生寿町。約337mほど行くと信号がある。左側角にビル屋上に「埼玉相互住宅」の派手な看板がある。ここから南越谷1丁目となり、しばらく行くと右側に「南越谷病院」があり、先に「南越谷病院前」の信号がある。左手セブンイレブンの手前に「忠魂碑」がある。すぐ「南越谷1丁目」の信号を過ぎると、左手にダイエー、サンシティ、右手に日産レンタカーなどがある。次の「新越谷駅入口」の信号を左に入って約290mほどで東武鉄道新越谷駅、JR東日本武蔵野線 南越谷駅がある。この辺りでは珍しく繁華街となってい。




【歩く地図でたどる日光街道】草加宿から越ヶ谷宿 蒲生から新越谷

初めて歩く人のために - 【 歩く地図でたどる日光街道 】説明   TOPへ
草加宿から越ヶ谷宿 蒲生(埼玉県越谷市)〜新越谷(埼玉県越谷市) 1503m 18分)

越谷市指定 有形文化財 歴史資料清蔵院の山門  昭和59年9月27日指定   TOPへ 
 この山門は、屋根など部分的に改造されているが、その棟札により寛永15年(1638)関西の工匠による建立であるのが確認される。ことに、欄間に掲げられている龍の彫刻をはじめ虹梁の彫刻なども江戸初期の素朴な様式をうかがわせている。
 なお、この山門の龍は巷間の伝説では左甚五郎の作といわれ、夜な夜な山門を抜け出して畑を荒らしたことから、これを金網で囲ったという。おそらくこの山門の建立者は、日光東照宮造営に動員された工匠の一人で、日光への往返に世話になった因縁から、東照宮竣工(寛永13年)後再び、国元から蒲生に出てこの山門を建立したものであろう。
 越谷では数少ない江戸時代初期の建造物として、また日光東照宮造営にまつわる伝説を残す歴史的資料として貴重なものである。 平成15年1月 越谷市教員委員会

越谷の歴史   TOPへ
 越谷市の市域のうち元荒川より南側の地域は古来より武蔵国埼玉郡に属し、1040〜1045年(長久・寛徳年間)野与党の一族越ヶ谷太郎や小相模次郎が定住、野与党の氏神久伊豆神社(うじがみひさいずじんじゃ)が建てられたと伝えられる。元荒川以北の地域は戦国期までは下総国葛飾郡下河辺荘のうち新方庄に属する地域で、一帯は南北朝期までは藤原秀郷の子孫である下野国小山氏の一門、下河辺氏によって開発された八条院領の寄進系荘園であった。
江戸時代初期の1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)に太日川より西の地域を武蔵国に編入したのに伴い、元荒川より北の地域が武蔵国に編入された。 江戸時代には、日光街道の宿場、越ヶ谷宿として栄えた。1625年(寛永2年)に三宮・大道・大竹・恩間が岩槻藩領になり、1662年(寛文 2年)以降、見田方・南百・千疋・四条・麦塚・柿ノ木が東方忍藩領になる。あとの地域はいわゆる「天領」であり、関東郡代の支配地域であった。参勤交代のおり、38藩以上が越谷宿を利用したという。 Wikipediaより

越谷の地名の由来   TOPへ
 「越ヶ谷」は「越(腰)の谷」の意で、「こし」は「山地や丘陵地の麓付近」の意、「谷」は「低地」の意であると思われる。つまり、「大宮台地の麓にある低地」を指す地名であると推測される。 「越谷」の地名は、1954年、合併により越谷町が成立した際に、合併前の越ヶ谷町と区別するために「ヶ」を取って「越谷町」としたことに由来する。したがって、旧越ヶ谷町にあたる越谷市の中央部の地名は、現在「越谷市越ヶ谷」であり、それ以外の「こしがや」が付く地名は、越谷町成立以降に出来た地名なので、「南越谷」「北越谷」「東越谷」などのように「ヶ」が入らない。同様の理由で「越ヶ谷高等学校」には「ヶ」が入り、「越谷北高等学校」「越谷南高等学校」などには「ヶ」が入らない。  Wikipediaより

越谷宿と近藤勇   TOPへ
 慶応4年4月3日、宇都宮方面増援のために粕壁に到着していた官軍香川敬三隊は、流山に武装集団が駐屯しているとの情報をにより流山に入り長岡屋を包囲しました。
 香川と有馬藤太が踏み込んで捜査すると、屋内には大久保大和と名乗る近藤と2.3人の隊士だけがいました。近藤は、我々は官軍の分隊だと説明し、近くの光明院に屯集する隊士のところへ案内しました。香川らは隊士を尋問したあと、隊の解散と板橋宿の東山道軍総督府へ出頭を命じました。
 一旦、長岡屋へ戻った近藤らは、武装解除の証しとして、砲3門、銃180挺を持参しました。近藤は馬にて薩摩藩有馬藤太に伴われ、局長付けの野村理三郎も帯刀したままで、その日のうちに越谷宿に送られました。(有馬藤太の回顧談「維新史の片鱗」)。
 越ヶ谷本町の名主富田屋伊左衛門方に一泊して(越谷市史、通史)、翌4日、板橋宿の総督府へ土佐藩の軍艦上田楠次を責任者とし、彦根藩の小隊長渡辺九郎左衞門の率いる兵によって、茶、タバコ盆などをいれた籠で護送されました。途中、休憩のため立寄ったと伝えられる綾瀬川の「一の橋」の袂にある「よしずや」では、藤が見事な花をつけていました。これを見て近藤勇は一種の歌を口ずさんでと伝えられています。
 その歌は「綾なる流に 藤の花 にほうわが生涯にくいはなし」とされています。
 勇が見た藤は「弁天の藤」と呼ばれ、推定樹齢350年余りと云われているが、平成3年3月河川改修のため七左町8丁目の出羽公園に移植されました。参照:「近藤勇のすべて」新人物往来社編集、発行 越谷市ホームページより

清蔵院
忠魂碑
越谷市
蒲生
本町
南越谷
新越谷
寿町
西町
武蔵野線
スカイツリーライン
左甚五郎

【お食事処】

【ご宿泊】

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