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地図でたどる日光街道TOP > 地図検索 > 12.松原団地〜蒲生(説明

仲間と出会う、感動と出会うクラブツーリズムの旅/東京23区発バスツアー

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日本橋から日光東照宮までの街道沿いに紹介したい宿泊施設や食事店がありましたらご連絡下さい。

第二次草加宿〜第三次越谷宿  11.草加宿〜松原団地  12.松原団地〜蒲生  13.蒲生〜南越谷  14.南越谷〜越谷
 

松原団地から蒲生まで
木原秋采子句碑を左に見て行くと、右に綾瀬川にかかる中曽根橋、松並橋がある。そろそろ松並木も終わりに近づいてくる。左手にじゃぶじゃぶ池があり、ここらあたりから右手川のそばは桜並木にかわる。正面に東京外環道が頭上を通り、その下をくぐり終わるとすぐ左手に松尾芭蕉・河合曽良像の壁画がある。今まだずっと遊歩道だったが、ここから車道となる。335mほど行くと、塊戸橋の交叉点にでる。左に行くと足立越谷線(旧日光街道)があり、そのまま直進295mほどで東武鉄道新田駅に至る。このまま直進し、川の右前方に古民家と木立が見える。そこが蒲生の一里塚。立派な蒲生大橋を渡り、川に沿って右の方へ行くと藤助河岸と古民家がある。見学した後引き返し、路地の間を入っていくと蒲生の一里塚。昔の面影を残しているようでいないようで複雑。昔、この辺りはクワイ畑がたくさんあったらしい。その面影が残っている。蒲生一里塚の対岸を川に沿って土手を行くと氷川神社の先にクワイ畑があり、さらに進むと馬頭観音がある。わずかに残っているが、いずれ宅地になってゆくだろう。綾瀬橋を渡って、川沿いを左に行くと久伊豆神社がある。
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初めて歩く人のために - 【 歩く地図でたどる日光街道 】説明   TOPへ
草加宿から越ヶ谷宿 松原団地(埼玉県草加市)〜蒲生(埼玉県越谷市) 1904m 24分)

松尾芭蕉   TOPへ
 1689年(元禄2)3月27日、46歳の松尾芭蕉は、門人の曾良を伴い、奥州に向けて江戸深川を旅発ちました。深川から千住宿まで舟で行き、そこで見送りの人々に別れを告げて歩み始めたのでした。この旅は、草加から、日光、白河の関から松島、平泉、象潟、出雲崎、金沢、敦賀と、東北・北陸の名所旧跡を巡り、美濃国大垣に至る600里(2,400km)、150日の壮大なものでした。この旅を叙したものが、日本三大古典に数えられる『奥の細道』です。
 月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老いをむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす…
あまりにも有名なその書き出しは、「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて漂白の思ひやまず…」と続き、旅は日光道中第二の宿駅叙述に進みます。
 もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり
 芭蕉は、肩に掛かる荷物の重さに苦しみながら2里8町(8.8km)を歩き、草加にたどり着きました。前途多難なこの旅への思いを吐露したのが「草加の条」です。『おくのほそ道』の旅は、この後草加から東北へと拡がっていくことになります。

草加と「おくのほそ道」   TOPへ
 俳聖・松尾芭蕉は紀行文「おくのほそ道」の中で、元禄2年3月27日、江戸深川を出立し、「その日やうやう(ようよう)早(草)加といふ宿にたどり着きにけり」と記しています。 この絵タイトルは、その「おくのほそ道」の旅を想像して描いたものです。 平成8年3月吉日

草加松原の今昔   TOPへ
 草加松原は、日光道中綾瀬川沿い約1.5kmの並木です。江戸時代より「草加松原」「千本松原」と呼ばれ、うっそうとした松並木が緑のトンネルを形成し、日光の杉並木と肩を並べる名所になっていました。 
 松の植樹時期は定かではありません。一説では、天和年間(1681〜1684)に関東郡代伊奈半兵衛門が綾瀬川を開削したときにあわせて日光道中を改修した際に植えたといわれています。しかし、1751年(寛延4)成立の『増補行程記』(盛岡藩士清水秋善筆)には松並木は描かれていません。記録によると、1792年(寛政4)に1230本の苗木を植えたということが記されています。1806年(文化3)完成の『日光道中分間延絵図』には街道の東西に数多くの松が描かれています。
 1870年(明治2)の調査では485本、1879年(明治10)には補植されて806本あったといわれます。1928年(昭和3)発行の埼玉県の調査報告書によると、「距離延長約14町(約1.5km)、樹数778本、道路の東側390本、西側338本、大きさ通常目通周囲約4.5尺、高さ7〜8間、最大なるもの目通周囲約8尺、高さ12間」とあります。
 しかし、昭和40年代には、自動車通行量の増加による排気ガスの影響で、成木は60数本にまで減少しました。1971年(昭和46)、草加市は「松の枯死の原因究明と対策」を検討し、松原再生に着手しました。松並木保存会による保護・補植、県道足立・越谷線の西側移設などにより、現在約600本まで回復しています。1986年(昭和61)、草加松原は「日本の道100選」に選ばれています。

蒲生の一里塚   TOPへ
 一里塚は、江戸時代街道沿いに一里ごとに設置させた塚で、塚の上にエノキ・マツ・スギなどを植えて、道程の目標や人馬賃銭の計量の目安に、また旅人の休憩の場などに用いられたものである。
 文化年間(1804〜1818)幕府が編纂した『五街道分間延絵図』には、綾瀬川と出羽堀が合流する地点に、日光街道をはさんで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基づつ設けられていたことがわかる。現在は、高さは2m、東西幅5.7m、南北7.8mの東側の東側の一基だけが、絵図に描かれた位置に残っている。
 また、塚の上にはムクエノキの古木・太さ2.5mのケヤキのほか、マツ・イチョウが生え茂っている。
 多くの塚が交通機関の発達や道路の拡幅などによって姿を消した中にあって、『蒲生の一里塚』は埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚である。 昭和61年10月 埼玉県教育委員会 越谷市教育委員会

蒲生の一里塚は綾瀬川と出羽堀が合流する蒲生愛宕町にあり、高さ2メートル、東西5.7メートル、東北7.8メートルの長方形をなしています。文化年間(1804〜1818)に編さんされた「五街道分間延絵図」には一里塚が東西に描かれていますが、現在は東側のみが残されています。この一里塚が県内の日光街道沿いに残る唯一の一里塚となっています。
越谷市ホームページより 教育総務部 生涯学習課 文化財係 電話 048-963-9315 FAX 048-965-5954

藤助河岸跡   TOPへ
 綾瀬川通りの蒲生の藤助河岸は、高橋藤助氏の経営によるもので、その創立は江戸時代の中頃と見られている。当時綾瀬川の舟運はことに盛んで年貢米はじめ商品荷の輸送は綾瀬川に集中していた。それは延宝8年(1680)幕府は綾瀬川通りの用水引水のための堰き止めを一切禁止したので、堰による荷の積み替えなしに江戸へ直送できたらで、以来綾瀬川通りには数多くの河岸場が設けられていった。
 明治に入り政府は河川や用水路普請に対する国費の支給を打ち切ったので、とくに中川通りは寄洲の堆積で大型船の運航は不可能になり中川に続く古利根川や元荒川の舟運は綾瀬川に移っていった。
 この中で陸羽道中(旧日光街道)に面した藤助河岸は地の利を得て特に繁盛し、大正2年(1913)には資本金5万円の武揚水陸運輸株式会社を創設した。当時この河岸からは、越谷・粕壁・岩槻などの特産荷が荷車で運ばれ、高瀬船に積み替えられて東京に出荷された。その出荷高は、船の大半を大正12年の関東大震災で失うまでは、年間18,000駄着荷は20,000駄以上に及んだといわれる。この河岸場は昭和初期まで利用されていた。
 なお、ここに復元された藤助河岸場は、藤助18代当主高橋俊男氏より寄贈されたものである。 
平成5年 越谷市教育委員会

蒲生大橋   TOPへ
 「日光道中分間絵図(文化3年 1806年完成)」によると、この橋は、大橋土橋と記されており長さ12間4尺、幅2間1尺、綾瀬川に架けられた土橋で、御普請場。
 足立郡と埼玉郡の境と解説されている。
 昭和51年8月に永久橋に架替えされた時の橋?書によると、大正7年6月、はじめて木橋として架橋され、その後昭和40年及び48年補修整備や重量制限(2トン)を施工してきたが、交通量の増大に伴い上記に永久橋として架替えた。草加市と越谷市の行政界が橋の中心を横断する。

道ぞ永き 日にやき米を 加茂蒲生 元禄16年 水野長福 結城使行より

市指定文化財 金明町氷川(旭)神社の算額 所在地 草加市金明町   TOPへ
 算額とは江戸時代から昭和にかけての数学者が掲げた絵馬であり、問題が解けるように祈願したのが始まりで、解ければその札の意味でまた奉納している。 
 全国に数百面現存し、埼玉県内にも90近くあり、この氷川(旭)神社の額は7番目に古い貴重な額である。
 草加地方での江戸時代の数学者、いわゆる和算家で、今までに知られた人物を列記すれば、昼阯v助義高、吉岡佐兵衛門信好、大川図書、近藤重次郎直信、谷塚茂左衞門良慶となるであろう。
 このように、この算額は市内唯一の算額であり、古いながらも保存がよく、しかも、奉納者の系統も明らかで県下で所沢に一面しかない宮城流という珍しい貴重な文化遺産である。
 草加市にとっても、誠に重要なものであるといわざるをえない。 昭和54年3月 草加市教育委員会

力石(ちからいし)   TOPへ
前にある石を、力石と言います。江戸時代から明治の頃、若者達が集まり、力試しや、力自慢に使用されました。その方法は、持ち上げる、肩に担ぐ、差し上げる、等です。
ここにある石の由来は明らかではないが、地元の有志の方の寄贈によるもので、昔の若者達の遊びの少なかった時代の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料であると思われます。 氷川神社

昭和52年8月8日指定 市指定有形文化財 宝積寺木像千体地蔵 草加市金明町371番地   TOPへ
 宝積寺は金明山と号し、本尊に、弥陀を安置する新義真言宗の寺である。
 当時の千体地蔵は、境内に新築された地蔵堂に安置されており、須弥壇中央に本尊の勝軍地蔵及び両脇侍地蔵を置き、その周囲に1列50体、20段にわたって千体の小地蔵を並列している。
 本尊の勝軍地蔵は鎧、兜に身を固め、右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、白馬に騎乗する姿の寄木造、彩色からなり総高40.5cmである。両脇侍の地蔵は、ともに一木造、彫眼、色彩からなり、像高は約39.4cmで、右脇侍は黒衣を、左脇侍は朱衣をまとっている。また、千体の小地蔵は、平均像高23.0cmほどで、概ね黒衣をまとうが、うち横1列10体毎に、数を計る目安にするためか、朱衣の地蔵を置く。
 この千体地蔵の構造は、だいたい一木造、彫眼、色彩からなるが、一部に薄材を前後二材寄せ、足先を別につけた寄木造のものがある。これは、後世の補作によるものとも思われる。
 千体地蔵は、地蔵菩薩が6道に苦しむ衆生を教化するため分身した有様を造形化したもので、中世を頂点にかなりの作例がある。この宝積寺の千体地蔵は、作風から見て江戸時代後期頃の造立と見られるが、今日までほぼ完備した姿で伝えられているのは珍しく、貴重な存在である。
 なお、その後の地蔵堂改築により、現在は左右2箇所に別けられて安置されている。 草加市教育委員会

水原秋桜子
じゃぶじゃぶ池
馬頭観音
松尾芭蕉
河合曽良
藤助河岸
蒲生一里塚
近藤勇
宝積寺
茶屋通り
蒲生茶屋通り
綾瀬川
氷川神社
旭神社
久伊豆神社
清蔵院
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越谷市
中根
旭町
愛宕
蒲生

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