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地図でたどる日光街道TOP > 地図検索 > 05.千住仲町〜千住宿(説明
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日本橋から日光東照宮までの日光街道沿いに紹介したい宿泊施設や食事店がありましたらご連絡下さい。

日本橋〜第一次千住宿  01.日本橋〜浅草橋  02.浅草橋〜浅草  03.浅草〜泪橋  04.泪橋〜千住仲町  05.千住仲町〜千住宿  ⇒千住宿〜草加宿へ

千住仲町〜千住宿
源長寺は将軍鷹狩りの御前所となったり、社参の時脇本陣として使われた格式の高い寺院。先の東京芸大前の交差点右に千住小橋、一里塚、左に江戸口木戸があり高札場、先右に馬寄場、左に問屋場、貫目改所があった。奥には飯盛女の供養塔のある不動院、右には旅籠屋中屋があった。少し行き右に入ると森鴎外旧宅と飯盛女の供養塔のある金蔵寺。先に行くと左に千住の地名のもとになった勝専寺があり、駅前通と交差して直ぐ左に本陣跡、明治天皇行在所跡、千住見番跡、見番横町、丁目境の筋交いなどの説明がある。先へ進み、右に千住高札場由来案内板があり、さらに先右に横山家住宅、左に絵馬屋、槍かけだんご、梅の湯の先の信号右に行く道が旧水戸街道、右奥には千住北の出口にあたる名倉医院、真っ直ぐ行くと旧奥州道(下妻道)日光街道は斜め左に進んでいた。荒川土手辺りに爺ヶ茶屋があった。千住新橋からの富士山の眺めがすばらしい。




【歩く地図でたどる日光街道】千住宿〜草加宿 D千住仲町〜千住新橋

初めて歩く人のために - 【 歩く地図でたどる日光街道 】説明    TOPへ
千住宿から草加宿  千住仲町(東京都足立区)〜千住宿〜千住新橋(東京都足立区) 2495m 30分

千住宿(せんじゅしゅく)
 武蔵国足立郡・豊島郡の荒川(隅田川)曲流部に設置された宿場町。日光街道および奥州街道の初宿で江戸四宿の1つとされ、水戸街道はここから分岐していた。
 荒川北岸部にあった足立郡千住村は古くから水上交通の要所とされ、戦国時代には享徳の乱で下総国を追われて武蔵石浜城の拠点を移していた元の千葉氏嫡流(武蔵千葉氏)が支配していた。
 小田原征伐後、徳川家康が江戸城に移され、文禄3年(1594年)に千住大橋が架けられると、急速に発展し、慶長2年(1597年)には人馬継立の地に指定されて千住町とされた。その後、寛永2年(1625年)に五街道の整備によって日光・奥州両街道の初宿に指定され、地子免除の代わりに伝馬役・歩行役を負担することとなった。その後も町域は広がり、万治元年(1658年)に隣接する掃部宿・河原町・橋戸町が、その2年後には荒川対岸の豊島郡側の小塚原町・中村町が加宿された。元の千住宿は1-5丁目に分けられて本宿、最初に追加された3町は新宿、対岸の2町は南宿(下宿)と呼ばれ、幕末期には家は2,400軒近く、人口も約1万人に達する江戸四宿最大の宿場町になった。
 更に千住宿は江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。享保年間に野菜市場や陸付米穀問屋と呼ばれる地廻り(地元近隣産)の米を専門に扱う米問屋街が形成され、更に宿場の外れには小塚原刑場が設置されて寛文7年(1667年)には、付近の土地は回向院に与えられて、子院が建てられて刑死した人の埋葬と供養を行った。
 保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、千住宿は距離2里8町、宿高(しゅくだか)1590.970、町並22町19間、人数9,956人(男5,005人、女4,551人)、家数2,370軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒、問屋場1軒、宿建人馬50人・50疋であった。
 明治維新後、千住大橋を境に再び南北に分離され、現在では北側は足立区、南側は荒川区に属している。Wikipediaより

宿高(しゅくだか)とは 農作物などを米の取れ高に換算して、村や町宿場の規模を表示したものです。単位は石・斗・升・合・勺(しゃく)で、1石は10斗、、1斗は10升、1升は10合となります。1合は10勺となります。1升は約1.8?(一升瓶1本分)で、1石は一升瓶100本分の量となります。なお、1俵はおおよそ3斗5升のお米を入れました。

町(ちょう)と間(けん)とは 町と間は、長さを測るときの単位のことです。1町は約109.09mとなります。1町は60間です。1間は6尺(しゃく)で、約1.82mになります。なお、町・間・尺は時代によっても少しずつ長さが異なりました。

本陣・脇本陣・旅籠とは いずれも旅館です。本陣・脇本陣は、参勤交代の大名や勅使・公卿といった貴人が宿泊しました。本陣が利用できないときには、かわりに脇本陣が利用されました。一般旅人が宿泊する旅籠があります。旅籠は、食事つきの宿泊施設です。

問屋場(とんやば)とは 問屋(といや・とんや)ともいい、次の宿場まで乗り継ぐ人足や馬を用意したり、公用の出張者の旅館手配など、宿場業務を取り扱う施設のことをいいます。

宿建人馬(しゅくだてじんば)とは 参勤大名や役人などが通行するときに、宿場で用意する人足(にんそく)
と馬の最大数のことです。足りない分は助郷(すけごう)として、周辺の村々から調達しました。本来50人50疋を割り当てられていましたが、文化5年(1808)に35人35疋に変更されました。

源長寺   TOPへ
慶長15年(1610年)石出掃部亮実胤により創建されました。本山は、京都の知恩院です。江戸時代には日光門主の通行寺に本陣の代わりを勤め、また将軍の鷹狩りの御善処となりました。
「石出掃部亮吉胤の墓」:石出掃部亮吉胤は、武蔵千葉氏の一族で、慶長3年(1598年)に掃部宿の開発をしました。元和2年(1616年)から翌年にかけて掃部堤を築造しました。現在の静岡県静岡市辺りの出身で、文学や書法を好み、俳友の建部巣兆を慕って千住に住み、俳句や書を教えていました。慈父のように敬愛された門弟によって、一啓斎路川句碑が建立されました。区の有形文化財として登録されています。
「多坂梅里翁碑」:多坂梅里は信濃国植田藩に仕えていましたが、享保年間の頃千住に住み、50年間にわたって教育を行いました。師を慕った門弟によって建立されました。 足立区観光交流協会ホームページより

千住宿問屋場跡 貫目改所跡   TOPへ
 旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改所が置かれていました。
宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は、50人、50尺です。この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。問屋場は元禄八年(1695)に設けられました。また、寛保3年(1743)に貫目改所が設けられ荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、四十貫目(150kg)を積むと大馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮までありませんので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂が飛び交ったとの話もあります。
 江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産業の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は、日本橋から二里八丁(8.7km)ですから、江戸時代の人にとっては、無事に出かけられる距離だったのでしょう。
この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていました。ただ、平成12年(2000)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられます。
 この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった杭穴と礎石の位置、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷さばき場の範囲を表示しています。

森鴎外旧宅 橘井〔きっせい〕堂森医院跡(森鴎外旧居)   TOPへ
 森鴎外の父静男は、元津和野藩主亀井家の典医であったが明治維新後上京し、明治11年(1878)南足立郡設置とともに東京府から都医を委託されて千住に住んだ。同14年都医を辞し、橘井堂森医院をこの地に開業した。鴎外は19歳で東京大学医学部を卒業後、陸軍軍医副に任官し、千住の家から人力車で陸軍病院に通った。こうして明治17年ドイツ留学までの4年間を千住で過ごした。その後静男は、明治25年、本郷団子坂に居を移した。

千住で始まった文筆活動(明治14年)   TOPへ
 千住に移住している頃、上図のように明治14年9月17日付『讀賣新聞』に「千住 森 林太郎」の本名で寄書(投稿)蘭に一文を寄せ、当時の一流文筆人を堂々と批判する文章を発表するなど、文筆活動を始めていた。明治23年には作品『舞姫』を「森鴎外」の名前で発表した。
 また、千住仲町に隠居していた元幕府医学館教授佐藤應渠(おうきょ 元萇げんちょう)のもとに通い漢詩の手ほどきをうけていた。漢詩作品も数多く、発表された作品のなかには、「訪應渠先生千住居」「呈應渠先生」「訪應渠先生居偶作」などがある。これらの漢詩は、佐藤應渠をたたえるとともに、應渠が医療活動をしていたことや、詩作に精通していたことを伝える内容ともなっている。これらの作品は明治24年頃に精力的に発表されているが、この年、鴎外は29歳・医学博士となっている。

千住から医師開業免状申請書を出す
 明治14年10月23日付で、南足立郡千住1丁目19番地から医師開業免状を申請した。

「千住の鴎外碑」の碑文 
 小説『カズイスチカ』(明治44年に発表された作品)について
 鴎外は、明治42年・47歳の時に文学博士となった。『カズイスチカ』は、鴎外が自省を込めて書いた作品という。かって千住宿の町医者であった父静男が毀誉褒貶に無頓着で、貧富の差なく真摯に患者に接していた姿を思い起こし、改めてその生き方に感動し敬愛の念を深めていった自分自身のことを題材にした作品である。平成20年5月 足立区教育委員会

勝専寺
 「おえんま様」の愛称で親しまれている赤顔赤腹のえんま王座像は、高さ約1.8mの木造で全身が朱の漆で塗られています。1月と7月の15・16日にある「すんま開き」の縁日は大勢の参拝客で賑わいます。(足立区観光交流協会 歩こうあだちより)

千住本陣跡とその周辺   TOPへ
 この案内板がある小道は千住2丁目と千住3丁目の境界をなす通りで、北千住駅前通りが全通する昭和初期まではかなり重要な通りでした。
●千住本陣跡
 この案内板の北側一帯が本陣(大名等専用の宿屋)で千住宿ではここ1ヶ所だけでした。敷地は361坪、建坪120坪であったと記録されています。
●明治天皇行在所(あんざいしょ)跡
 明治9年の明治天皇の東北ご巡幸の砌。この地に泊まられ皇后陛下ご一行と送別の宴を当時千住最大の旅籠であった中田屋の別館で催されました。そのためそこを行在所(天皇陛下が一時的に滞在する所)といいました。
●千住見番(けんばん)跡
 江戸時代から千住宿には遊女(食売女)を置いていい旅籠が50軒ほどありました。明治にこれが禁止されると千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれました。花街が千住柳町に移転させられた大正8年以降も昭和18年迄営業していたといいます。そのためこの通りを「見番横町」といっていたそうです。
●丁目境の筋違
 各丁目毎にその境界は街道に対して出入りをつけていたのですが1〜2丁目、3〜4丁目の境界が拡幅などでわからなくなってしまったのに対し、ここは旧街道に対して2丁目側と3丁目側の正面が違うのがはっきり見られます。 平成9年8月吉日

千住宿本陣跡 千住3-33
 大名が参勤交代などを行う際に宿泊する場所を、本陣といいました。現在の千住3丁目あたり、いまは路地裏にその当時を物語った説明板があるのみ。(足立区観光交流協会 歩こうあだちより)

千手町の駅 千住3-69
 千住の街なかで、気軽に休憩ができたり、足立の街情報を知ることのできる、ちょっと昭和レトロな雰囲気のお休み処です。 千住街の駅は、来訪者や学生、地域の方々が出会い、人や街と繋がっていくための場所として皆様の来館をお待ちしております。(足立区観光交流協会 歩こうあだちより)

千住宿 高札場 由来   TOPへ
 私たちの街 千住が宿場となって栄えたのは慶長2年(1597)人馬引継駅として以来のことだといわれています。
 江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではありません。
 特に寛永2年(1625)東照宮建立によって日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄し、約四百年を経て、今日に至っております。
 このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設けていました。
 これからも私たちの街歴史・伝統・文化を、そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいとおもいます。 昭和63年11月 足立区役所公園課

千住絵馬屋・吉田家 千住4-15-8  TOPへ
 吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋である。手書きで描く都内にほとんど見掛けなくなって、希少な存在となった。
 当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し、江戸時代からの伝統を守り続けている。縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬が千住絵馬である。
 絵柄は、安産子育て、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構図が決まっており、30数種ある。
 これらの代表的絵馬が、現在吉田家に一括保存されている。時代ごとの庶民の祈願を知るうえで貴重な民族資料である。※見学は外観のみ 平成4年3月 東京都足立区教育委員会

横山家住宅   TOPへ
 宿場町の名残りとして、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。伝馬屋敷は、街道に面して間口が広く、奥行きが深い。戸口は、一段下げて造るのが特徴である。それは、お客様をお迎えする心がけの現れという。
 敷地は、間口が13間、奥行きが56間で鰻の寝床のように長い。
 横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋を営んでいた。
 現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和11年に改修が行われている。間口が9間、奥行が15間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺きの2階建てである。
 広い土間、商家の書院造りといわれる帳場2階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野の戦いで、敗走する彰義隊が斬りつけた玄関の柱の傷痕や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。 平成2年10月 東京都足立区教育委員会

千住蔵の町・まち歩きポイント 横山家の蔵(非公開です)   TOPへ
●天井には蔵が建築された明治9年(1876)とかかれた棟札が貼られています。
●以前は外側の窓には漆喰仕上げで観音開きの防火扉がついてしました。
●入口は観音扉と引き戸の二重になっています。
●外壁の折れ釘は土壁の仕上がり厚を確認したり足場の手掛かりにしたり風雨から漆喰を守るための板を取り付けたりする部材です
●腰壁は煉瓦で組み上げられています。
代々「松屋」を屋号とした地漉き紙問屋横山家には以前は外蔵が2棟と内蔵・紙蔵・米蔵が各々1棟あったそうです。今でも敷地内では外蔵が1棟活用されています。現存する外蔵は間口2間×奥行き3間半の木骨土蔵造りです。火事の際には開口部を閉め隙間を目張りをするため地面に穴を掘り壁土を常備しいつでも使えるよう時々捏(こ)ねていました。 千住・町・元気・探検隊/千住蔵研究会 平成14年01月設置

千住名倉医院   TOPへ
 ほねつぎといえば名倉、名倉といえばほねつぎの代名詞になるほど、往事の名倉医院は関東一円に知られ、下妻道に面し日光道中や水戸海道分岐点を間近にして便がよかったから駕籠や車で運ばれてくる骨折患者がひしめいていたという。門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの溜り場であった。
 名倉家は、秩父庄司畠山氏の出で享保年中(1716〜)千住に移り、明和年間(1764〜)に接骨医を開業したと伝わる。
 現在、江戸時代から昭和中期まで盛業時の医院の建物が保存されている。昭和59年12月区登録記念物(史跡)とした。 かって、名倉医院の周辺には、患者が宿泊して加療できる下宿屋、金町屋、万屋、成田屋、大原屋、柳屋があって、その主人が名倉医院で治療に当たる医師及び接骨師を兼ねていた。
 平成5年3月 東京都足立区教育委員会

千住仲町
一里塚
千住宿高札場
千住小橋
千住宿問屋場
千住貫目改所
馬寄場
森鴎外旧宅
千住宿本陣
見番横町
明治天皇行在所
丁目境の筋違
名倉医院
槍かけだんご
絵馬屋
水戸街道
荒川放水路
北千住
足立区

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制作・著作:風になりたや(浜田輝雅)
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