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地図でたどる日光街道TOP > 地図索引 > 03.浅草〜泪橋 (説明)

仲間と出会う、感動と出会うクラブツーリズムの旅/東京23区発バスツアー

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日本橋から日光東照宮までの街道沿いに紹介したい宿泊施設や食事店がありましたらご連絡下さい。

日本橋〜第一次千住宿  01.日本橋〜浅草橋  02.浅草橋〜浅草  03.浅草〜泪橋  04.泪橋〜千住仲町  05.千住仲町〜千住宿

.浅草から泪橋
伝法院、浅草寺、浅草神社、被官稲荷神社を見学し、二天門を通り、新吉原に通う武士たちが馬で往来した馬車通りを過ぎると、花川戸公園に、旅人の寝込みを石を落として殺して金品を奪ったという伝説の姥ヶ池がある。雷門橋西交差点は浅草追分といわれまっすぐ行くのが古奥州道、左に行くのが日光街道。直ぐ右に周囲が見渡せ眺めがいいので多くの人が落とす競れた待乳山聖天は、スカイツリーの眺望もいい。さらに進むと、山谷堀公園がある。こゝには山谷堀が流れ吉原への遊客が猪牙船(ちょっきぶね)で繰り出した。両側に日本堤があり歩いて行く人で賑わった。こゝに架かる橋が山谷橋。右には沖田総司終焉の地といわれる今戸神社、左に正法寺がある。少し行くと右に熱田神社、さらに左に伊達騒動で有名になった吉原の名妓高雄ゆかりの春慶院、北に各街道の入口に建てられた六地蔵のある東禅寺、右に源義家が愛馬を葬ったといわれる。右に少し入ると采女塚、妙亀塚、玉姫稲荷神社(標芽ヶ原(しめじがはら と呼ぶ)、福寿院などがある。その先、明治通りの交差点は泪橋(なみだばし)で小塚原刑場へ向かう囚人の最後の別れの場となった。




【歩く地図でたどる日光街道】日本橋〜千住宿 B浅草〜泪橋

初めて歩く人のために - 【 歩く地図でたどる日光街道 】説明  TOPへ
日本橋から千住宿 浅草(東京都台東区)〜泪橋(東京都荒川区) 2307m 30分 

聖観音宗総本山 金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ) 御本尊聖観世音菩薩   TOPへ
○○の仏さまは、多くの仏さまの中で最も慈悲深い仏さまであり、人々の苦しみを見てはその苦しみを除き、願いを聞いては楽しみを与えてくださいます。特に浅草寺ご本尊の観音さまのご利益・ご○○は古今無双であり、ご示現より今日まで千四百年近くにわたり計り知れぬほどの人々を救われご加護なさってきました。観音さまのご信仰とは、観音さまに「慈悲」のお心を頂いて生きること、すなわちすべてに「あたたかい心」で接して日々を過ごすことと申せましょう。
 ご参拝の際には合掌して「南無観世音菩薩」とお唱えしましょう
縁起(由来)
時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前(ひのくまの)○○・竹成(たけなり)の兄弟は江戸浦(隅田川)に漁撈中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得した。郷士土師中知(ごうしはじのなかとも 名前には諸説あり)はこれを行し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝供養に生涯を捧げた。
 大化9年(645)、勝海上人がこの地においでになり、観音堂を建て○し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法の○○厳守されている。
 広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は○○の信徒が増につれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁さま(794〜864 浅草浅草寺中興開山・比叡山天台座主三世)が来山され、お○立のご本尊を?刻された。
 鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰を集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所とされてからは、堂塔の威容はさらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。かくして都内最古の寺院である浅草寺は浅草観音の名称で全国的にあらゆる階層の人たちに親しまれ、年間約三千万人もの参詣者が訪れる、民衆信仰の中心地となっている。

江戸・東京の農業 檜前(ひのくま)の馬牧   TOPへ
 大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令(ちょうもくれい)が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧 かんまき)が39ヶ所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により32ヶ所の牧場(勅旨牧 ちょくしまき)が設置されました。
 東京には「檜前の馬牧」「浮嶋の牛牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記録にあって「檜前の馬牧」は、ここ浅草に置かれたのではないかと考えられています。
 浅草神社の祭神で、浅草寺本尊の発見者である、檜前浜成、竹成兄弟の説話から、檜前は浅草付近であったと「東京市史橋」では推定していて、「浮嶋の牛牧」は本所に、「神崎の牛牧」は牛込に置かれたとされています。
 時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で「生類憐れみの令」が解かれたり、ペリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、江戸に欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年の東京府牛乳摂取販売業組合の資料によると、浅草区の永住町、小島町、森下町、馬道と、浅草でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。 平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法施行50周年記念事業

初代 花柳壽輔略傳   TOPへ
出生 文化4年2月19日、芝・新明にて出生。
6 才 文政9年、四世西川扇藏の許に入門し舞踏修行の道に入る。
8 才 文政11年、七世市川団十郎の鑑識に叶い市川鯉吉の芸名にて舞台を踏む。
19才 天保10年、旧師西川扇藏の許に復帰し、西川芳次郎として振付師の第一歩を踏み出す。
25才 吉原の玉屋小三郎より俳号の「花柳」なる二次を与えられ、以後花柳芳次郎と稱す。
   爾後、七世市川団十郎が嘉永2年、当時市川海老蔵を名乗り、その俳名「寿海」に因みて「壽」の字を贈
   られ、29才にして初めて花柳壽助を名乗り、後に「助」を「輔」に改め、と共に、諸流に冠絶して振付
   の第一人者として謳はれる事、実に半世紀。その作品は一千五百種を超え就中「土蜘」「茨木」「戻橋」
   「舟辯慶」の如きは不滅の傑作と讃られる。
83才 明治36年1月28日、花柳流の祖としての偉業を樹て、門弟、縁者に見守られ其の生涯を終える。  浅草観光連盟

浅草神社 台東区浅草2丁目3番   TOPへ
 明治初年の文書によると、祭神は土師間中知命・桧前浜成命・東照宮である。浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、間中知はその像の奉安者といわれている。三神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。しかし鎮座年代は不詳。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安2年(1649)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(1868)三社明神、同6年浅草神社と改称した。
 現在の社殿は慶安2年12月、徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」(弊殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。この社殿は江戸時代初期の代表的権現造りとして評価が高く、国の重要文化財に指定されている。毎年5月に行われる例祭は「三社祭」の名で知られ、として無形民俗文化財「びんざさら」の奉演、百体近い町御輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。 平成6年3月 台東区教育委員会

神木『槐』の木の由来   TOPへ
 槐は中国原産の豆科の落葉喬で、葉は藤に似て、夏、黄白色の花をつけ、高さ10mに及ぶ。古来中国では宮廷の庭に三本の槐を植え三公のつく位置を示したといわれる通り、高貴の木として珍重された樹木である。
 浅草寺のご本尊の聖観世音菩薩は推古天皇36年(628)3月18日、隅田川で漁をしていた檜前浜成(ひのくまはまなり)、竹成(たけなり)の二兄弟によって網得され川辺の槐の木の切り株に安置されたが、その主、土師仲知(はじなかとも)の教導により、三人共々深く観世音に帰依し草堂を結び自邸を寺に変えたのが浅草寺の始まりと伝えられている。その後この三人が浅草観音示現の功労者として、三社権現の尊称を奉られ、神として祭祀されたが、これが当浅草神社であるから、槐は浅草寺にとっても当社にとっても非常に因縁の深い木である。
 その故か、当境内には槐の木が自生し、枯れては生え、枯れては生え、連綿として絶えることがない。まことに不思議な縁を感じさせる木である。 昭和62年9月 浅草神社奉賛会 浅草観光連盟

被官(ひかん)稲荷社  台東区浅草2丁目3番1号   TOPへ
 安政元年(1854)、新門辰五郎(しんもんたつごろう)の妻女が重病で床に伏したとき、山城国(現、京都府南部)の伏見稲荷社に祈願した。その効果があって病気全快、同2年、お礼の意味を込め、伏見から祭神を当地に勧請(かんじょう)し、小社を創建して被官稲荷社と名付けた。名称の由来は不詳だが、被官は「出世」と解せば良いという。
 辰五郎は上野寛永寺住職輪王寺宮の家来、町田仁右衛門の養子。本姓は町田であった。輪王寺宮舜仁親王が浅草寺伝法院に隠居し、上野へ行くのに便のいい新門を造った。その門の番を命じられたので、新門辰五郎と呼ばれた。辰五郎は町火消し十番組の組頭としても、多彩な活躍をした。
 社殿は一軒社流造(いっけんしゃながれづくり)、杉皮葺、創建以来のもの。間口約1.5mと小さいが、覆屋(おおいや)を構えて保護している。覆屋は大正期の建築であろう。社前には「安政2年9月立之 新門辰五郎」と刻む鳥居ほかがある。 平成4年11月 台東区教育委員会

銅像宝篋印塔(どうぞうほうきょういんとう) 台東区有形文化財  台東区浅草7丁目4番1号 本龍院   TOPへ
 宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造文された塔である。本塔は江戸時代中期征こうに流行した、屋根型の笠をもつ宝篋印塔で、時代性をよく表している。基礎に刻まれた銘文から、天明元年(1781)に鋳物師西村和泉守が制作し、蔵前の札差等16名が奉納したものであることが分かる。西村和泉守は、江戸時代から大正時代にかけて、11代にわたり鋳物師を努めた家で、本党の作者は五大西村政平にあたると考えられる。
 銅像の宝篋印塔は全国的にも類例が少なく特に区内では造立当初からほぼ完全な形で遺された唯一の事例である。各部の装飾は優れており、鋳物師の高い技術を知ることができる。また、蔵前の札差の奉納物としても貴重な歴史資料である。
 平成14年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。平成19年3月台東区教育委員会

待乳山〔まつちやま〕聖天  台東区浅草7丁目4番1号   TOPへ
 本龍院待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇9年(601)夏、早魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。
 ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材とも成っている。
特に、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、
 哀れとは夕越えて行く人も見よ 待乳山に残す言の葉
の歌は著名で、境内にはその歌碑「昭和30年再建」のほか、石造り出世観音立像、トーキー渡米の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当時のご利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。1月7日大般若講大根祭には多くの信者で賑わう。
 なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和36年に再建されたものである。 平成11年3月 台東区教育委員会

下町まちしるべ 旧浅草聖天町、浅草聖天横町   TOPへ
 本町の起立年代は不詳である。寛文図に「聖天丁」と記載があるので、かなり古く開かれた町である。町名は町内に待乳山聖天宮があるのにちなんだ。聖天宮の正式な名称は本龍院といい、聖天宮は聖天を安置していることによる。金龍山あるいは待乳山と号し、浅草寺の子院である。
 待乳山は隅田川西側の小丘で、江戸時代から文人墨客に愛された景勝の地であった。聖天宮はこの待乳山の上にある。
 「浅草聖天町」浅草聖天町の西側続地であり、町の地形から横町とつけられた。起立年代はわからないが浅草聖天町よりやや遅れてできたのであろう明治5年(1872)、浅草寺子院の遍照院を合併して町域を広げた。

池波正太郎生誕の地   TOPへ
 作家・池波正太郎(1923〜1990)は、大正12年旧東京市浅草区聖天町67番地に生まれました。
この年の9月に関東大震災が起こり、生家は焼失してしまいましたが、その後も少年期・青年期を浅草区で過ごしました。
 昭和35年(1960)、「錯乱」で直木賞を受賞し、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」など、人気シリーズをはじめ、時代小説の傑作をつぎつぎと生み出し、この辺りもたびたび舞台として描いています。 「大川と待乳山聖天宮」というエッセイでは、「生家は跡形もないが、大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものだ」と記しています。生家は、待乳山聖天公園の南側(現台東区浅草7丁目3番付近)にありました。 平成19年11月 台東区


浅草神社
二天門
待乳山
山谷堀
日本堤
猪牙船(ちょっきぶね)
泪橋
吉原
妙亀塚
玉姫稲荷神社
采女塚
標芽ヶ原
衣紋坂
猿若町
馬道通り
浅草追分
姥ヶ池
池波正太郎
浄閑寺
台東区
荒川区
今戸
清川

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制作・著作:風になりたや(浜田輝雅)
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