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地図でたどる日光街道TOP > 地図検索 > 04.泪橋〜千住仲町(説明

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日本橋から日光東照宮までの街道沿いに紹介したい宿泊施設や食事店がありましたらご連絡下さい。

日本橋〜第一次千住宿  01.日本橋〜浅草橋  02.浅草橋〜浅草  03.浅草〜泪橋  04.泪橋〜千住仲町  05.千住仲町〜千住宿

泪橋から千住仲町
泪橋交叉点を過ぎと山谷の簡易旅館が増えてくる。地下鉄日比谷線のガードをくぐると左に小塚原刑場跡に延命寺、そこに首切り地蔵が、ある。さらにJR常磐線のガードをくぐると両国橋近くにあった回向院があり、安政の大獄により刑死した橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎(らいさんきさぶろう)ら多くの志士たちが葬られている。また、蘭学者杉田玄白、中川淳庵、前野良澤らが、刑死者の解剖に立ち会い解体新書を翻訳した。その他山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉、高橋お伝の墓がある。先に南千住商店街があり、昔はコツ通りといわれた。突き当たりが須盞雄(すさのお)神社があり神社の左には陸羽裏街道が通っていた。この辺りは千手下宿と呼ばれていた。この先左に誓願寺、衣菜忠次が千住大橋を架けるとき祈願した熊野神社、千手の河岸がある。隅田川で最初に架けられた千住大橋を渡ると左に松尾芭蕉奥の細道矢立の碑があり、その奥に橋戸神社がある。足立市場前交差点で4号線は左に曲がり、日光街道は右に入っていく。こに足立市場があり「やっちゃば」の語源のもとになった。松尾芭蕉旅たちの像がある。京成電鉄の線路の下をくぐると、左に千住歴史プチプラスがあり、左に行くと大師道、先に千住仲町の交差点は、掃部宿と呼ばれ、墨堤通りは掃部堤で堤防の上に道筋があった。この交差点左に源長寺がある。




【歩く地図でたどる日光街道】日本橋〜千住宿 C泪橋〜千住仲町

初めて歩く人のために - 【 歩く地図でたどる日光街道 】説明  TOPへ
日本橋から千住宿 泪橋(東京都荒川区)〜千住仲町(東京都足立区) 2064m 24分

泪橋
南千住
延命寺
西光寺

小塚原刑場跡   TOPへ
 江戸のお仕置場(刑場)は、品川の鈴ヶ森と千住の小塚原の二つである。
 小塚原の刑場は、間口60間余(約54m)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔・斬首・獄門などの刑が執行された。
 首切り地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(1741)に造立されたものである。 荒川区教育委員会

荒川区指定記念物(史跡)  小塚原刑場跡(こづかっぱら)回向院   TOPへ
 小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転してきたといわれています。
間口60間(約108m)、奥行き30間余り(約54m)、約1,800坪の敷地でした。日光街道に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していました。
 小塚原の刑場では、火罪、磔(はりつけ)、獄門などの刑罰が執り行われるだけではなく、刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。時に死刑者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだあとの埋葬地として利用されることもありました。そして回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていました。
 明治前期には、江戸時代以来の刑場として機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となってきました。橋本左内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となりました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良澤らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。
お墓の略図あり、入口より磯部浅一・妻登美子の墓、右に相馬大作供養碑、右奥に高橋お伝の墓、さらに右奥に鼠小僧の墓、右奥に景岳橋本君碑(区登録有形文化財)、右奥に橋本左内の墓(区登録有形文化財)、左奥に頼三樹三郎の墓(区登録記念物)、さらに奥に吉田松陰の墓(区登録記念物)がある。  (平成18年1月13日指定)平成20年3月 荒川区教育委員会

小塚原刑場跡   TOPへ
 此の地附近は徳川幕府初期頃より重罪者の刑場に宛てた所で昔は「浅草はりつけ場」と称されていた。刑場として開創されてから二百二十余年の間埋葬された屍体は実に二十余万と称せられるが大部分は重罪者の屍体であった。
 寛文七年(1667)刑死者の菩提を弔うため一寺を草創した。これが現在の史跡小塚原回向院である。幕法よりすれば憂国の志士、盗賊、放火、の罪人も等しく幕府の大罪人であって、これらの大罪人が伝馬町の牢獄など小塚原の刑場に於く仕置きとなる時は、その遺体は非人類に下げられこの境内に取捨となった。故に埋葬とは名のみであって土中に浅く穴を掘りその上にうすく土をかける丈けであったから雨水に洗われて手肢の土中より露れ出ること等決して珍しくなく特に暑中の頃は臭気紛々として鼻をつき野犬やいたちなどが死体を喰い残月に?く様はこの世ながらの修羅場であった。
 文政五年(1832)南部家の臣であった相馬大作、関良助の屍を埋めてより国事犯の刑死者の死体をここに埋めることになり即ち安政の大獄(1850)以降桜田門事件、坂下門事件の橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎、その他の憂国の志士の屍は大抵此処に埋葬されたのである。
最近では二,二六事件の磯部浅一の墓がある。

小塚原の観臓記念碑   TOPへ
明和八年三月四日(1772)前野良澤、杉田玄白、中川淳庵等此処にて刑屍の解剖を見て発○○○所あり直ちにオランダ解剖図請の翻訳に着手し4年の星霜をついやしついに解体新書五巻を大成した実にこれ我が国西洋医学の○○である。

首切地蔵尊(延命地蔵)   TOPへ
花崗岩の座像の大地蔵で俗に首切地蔵と称して居る高さ一丈二尺(3.6m)寛保元年八月(1741)刑死者の菩提を弔うため建立された。
因に延命寺は昭和57年11が20日回向院より別院独立し開山した寄である。 昭和五十九年回向院住職

回向院(えこういん)   TOPへ
  回向院は、寛文七年(1667)、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病気者や刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。
 安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)ら多くの志士たちが葬られている。
 明和八年(1771)蘭学者杉田玄白・中川淳庵、前野良澤らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に『解体新書(かいたいしんしょ)』を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して大正十一年に観臓記念碑が建立された。 荒川区教育委員

蘭学を生んだ解体の記念に   TOPへ
 1771年・明和8年3月4日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。
これまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。
 その帰りみち3人は発憤してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心のすえ、ついに1774年・安永3年8月に、「解体新書」五巻をつくりあげた。
 これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめでこれから蘭学がさかんになり、日本の近代文化がめばえるきっかけとなった。さきに1922年奨進医会が観臓記念碑を本道裏に建てたが、1945年2月25日戦災をうけたので、、解体新書の絵とびらをかたどった浮彫青銅板だけをここへうつして、あらたに建てなおした。 1959年 昭和34年3月4日 第15回日本医学会総会の機会に  日本医史学会 日本医学会 日本医師会

素盞雄神社(すさのおじんじゃ)   TOPへ
 小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。
 石を神として尊崇する信仰は全国各地にみられるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦14年(795)、荊石(けいせき)が微妙な光を放ち、その光りのうちに翁の姿をした二神〔素盞雄命(すさのおのみこと)・事大主命(ことしろぬしのみこと)〕が現れて神託を告げたという。そのためその石は「瑞光石(ずいこうせき)」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀る。
 宝暦年間頃まで行われていたという千住大橋綱曳は、その年の吉凶を占う当社の神事で、『東都歳時記』(天保九年)にその雄壮な様が描かれている。 荒川区教育委員会

天王社の大銀杏(てんのうしゃのおおいちょう)   TOPへ
 素盞雄神社(すさのおじんじゃ)境内は、古来より「あすかの森」と呼ばれ、銀杏などの大木が林立していた。『江戸名所図絵(えどめいしょずえ)』にも、境内に樹木が生い茂っている様が描かれている。
 この大銀杏は、幹の周囲約3,3m、高さ約30mである。  この木の皮を煎じて飲むと、乳の出が良くなるという伝承を持つことから、絵馬を奉納祈願する習わしがあり、現在も続いている。 荒川区教育委員会

素盞雄神社と千住大橋 瑞光石と大橋   TOPへ
御祭神すさのお大神・あすか大神が光を放ち降臨した小塚の中の奇岩(瑞光石)。
文政12年(1829)編纂の『江戸近郊道しるべ』には、大橋架橋の際、この瑞光石の根が大川まで延びていた為に、橋脚が打ち込めなかったという伝承が紹介されています。

千住の綱曳き   TOPへ
 江戸時代のお祭りガイドブック『東都歳時記』には、当社のお祭り(天王祭)最終日には、大橋の南北で大綱を引き合い、その年の吉凶を占ったことが紹介されています。綱曳きは江戸では珍しいお祭りで、大変有名であったと言います。
 農業にとって大切な水。その綱は、雨を降らせる神様の姿である龍や大蛇を表し、その年の作物の吉凶を占う行事でした。

瑞光石(ずいこうせき)   TOPへ
 瑞光石は、素盞雄神社(すさのおじんじゃ)の祭神が翁に姿をかえて降臨した奇岩といわれ、「瑞光荊石(ずいこうけいせき)」とも称される。また、この塚を「古塚」と呼んだことから、小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もある。
 嘉永4年(1851)には周囲に玉垣(たまがき)を築き、元治元年(1864)には浅間神社(せんげんじんじゃ)を祀った。
 万延元年(1860)に編纂された「江戸近郊道しるべ」には、千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現隅田川)まで延びていたため、橋脚がうちこめなかったという伝承が紹介されています。

荒川区指定有形民俗文化財 庚申塔群三基(寛文13年銘他)   TOPへ
 江戸時代に建てられた3基の庚申塔の中で、向かって左から、延宝6年(1678)銘、寛文13年(1673)銘、文化8年(1811)銘があります。
 庚申塔とは、60日に一度めぐってくる庚申日の日に、寝ずに夜を明かす行事「庚申待」を3年間継続した所願成就の証として建てられたものです。
 中央の寛文13年銘の庚申塔は、聖観音が本尊です。聖観音の光背には「庚申講供養」と「念仏講供養」の文字が刻まれ、庚申信仰と阿弥陀信仰の習合が見られます。左の延宝6年銘の庚申塔は、如意輪観音が本尊です。月待信仰に関する勢至菩薩の種子が刻まれていて、庚申信仰と月待信仰との習合がうかがえます。施主として九兵衛、おとらなど男女15人の名が見えます。文化8年銘の庚申塔には「青面金剛」の文字が刻まれています。
 寛文13年銘と延宝6年銘の庚申塔は、造形上も優れており、他の信仰との習合も見られまた3基の庚申塔から近世の庚申塔の変遷がうかがえ、学術的にも貴重なものであるといえます。 (平成18年1月13日指定) 平成20年3月  荒川区教育委員会

誓願寺(せいがんじ)   TOPへ
 浄土宗の寺院で、豊徳山恵心院(ほうとくざんえしんいん)という。奈良時代末期(780ごろ)の草創で、長保元年(999)恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)が天台宗寺院として開基したと伝える。その後、慶長元年(1596)、芝増上寺18世定誉随波が、天台宗を改め浄土宗とした。
 本尊阿弥陀如来は、聖徳太子の作と伝える。源信が一枚の船板に彫刻した一光三尊の阿弥陀立像や厄除け地蔵などがあったが、現在は、阿弥陀立像を模して作られた版木(年未詳)を残すのみとなった。
 天正19年(1591)、徳川家康が巡覧した折りに腰掛けたという榎木が二本あった。現在境内には、親の仇討ちをした子狸の伝承を残す狸塚、庚申塔二基、板碑、汐入村開祖高田氏の墓などがある。 荒川区教育委員

千住大橋   TOPへ
 “千住大橋”は“千住の大橋”とも呼ばれている。最初の橋は、徳川家康が江戸城に入って四年目の文禄3年(1594)に架けられた。隅田川の橋の中では、一番先に架けられた橋である。
 当初は、ただ大橋と呼ばれていたが、下流に大橋(両国橋)や新大橋がつくられてから“千住”の地名を付して呼ばれるようになった。
 江戸時代の大橋は木橋で、長さ60間(約120m)、幅四間(約7m)あった。
 奥州・日光・水戸三街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び、34藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。
 松尾芭蕉が、奥州への旅で、人々と別れたところもここである。
 現在の鉄橋は、関東大震災の復興事業で、昭和2年(1927)に架けられ、近年の交通量の増大のため、昭和18年(1973)新橋がそえられた。 昭和59年3月 東京都

史跡 おくのほそ道矢立初の碑   TOPへ
 千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、
 幻のちまたに離別の泪をそそぐ 行春や鳥啼魚の目は泪
 是を矢立の初として、行道なおすすまず。
 人々は途中に立ならびて、後かけのみゆる迄はと見送なるべし。

千住大橋と奥の細道   TOPへ
 千住大橋は文禄3年(1594)、伊奈備前守忠次を普請奉行として、現在地よりやや上流の位置に隅田川最初の橋として架けられました。まだ治水も十分でなかった大川での架橋は難工事でした。伊奈備前守は、工事の際に熊野権現に祈願して、架橋の無事完成を期したと伝わっています。その後いくたびか架け替えや修理が行われました。現在の鉄橋は、昭和2年(1927)に完成した長さ925mで当時としては総アーチ型という最新の橋でした。
 江戸時代の俳人、松尾芭蕉は元禄2年(1689)門弟曾良とともに深川より隅田川を船でさかのぼり、同年3月27日ここ千住大橋の辺りで船を降り「奥の細道」の旅へと旅立ちました。このとき、矢立より筆を取って「行春や鳥啼魚の目は泪」と一句。過ぎゆく春を惜しむと同時に、旅立つ者に人ばかりか鳥や魚までが別れを悲しんでいるという意味です。そこには、江戸を離れる芭蕉の思いが隠れています。その後、奥州・北陸をへて大垣に至る約600里、半年にわたる行脚をし、道中の詠句をもとに「奥の細道」が編まれました。  荒川区教育委員会

此処は元やっちゃ場南詰   TOPへ
やっちゃ場とは多くの問屋のセリ声がやっちゃやっちゃと聞こえてくる場所(市場)から来たと言われている。
古くは、戦国時代末期の頃より旧陸羽街道(日光道中)の両側に青空市場から始まり江戸、明治と続き大正、昭和が盛んだったと伝え聞いている。街道の両側に30数軒の青物問屋が軒を並べ毎朝威勢の良いセリ声が響き渡り江戸、東京に青果物を供給する。一大市場だった。昭和16年末に第二次世界大戦勃発と同時に閉鎖となり、以来青果物は東京都青果物市場えと変わって行きやっちゃ場という言葉のみが青果市場の代名詞として残った。

千住蔵の町・まち歩きポイント 千住宿歴史プチテラスとやっちゃば   TOPへ
このあたりは「やっちゃば」とよぶ江戸時代から続く青果物問屋街で関連する商家が立ち並んでいました。
今でも当時の屋号が伝わっています。
取引は掛け売りで行われており売掛台帳を大切にしていました。そのため戦災で消失する以前は敷地の奥に蔵がたくさん建っていました。千住宿歴史プチテラスの建物は千住四丁目の元地漉きき紙問屋横山家にあった内蔵を平成5年に解体移築した土蔵です。蔵は間口3間半×奥行2間半の木骨土蔵作りです。
●天井は小屋裏がアラワシになっていて伝統的な和小屋組が見られます。
●屋根裏中央の小屋梁には天保元年(1830)と書かれ多棟札が貼られています。
●2階の床板は展示効果のため一部撤去してあります。
●2階への階段は物入れのついた箱階段です。
●外壁は厚さ30cmくらい厚みがあったと伝えられています。 千住・町・元気・探検隊/千住蔵研究会 平成14年01月設置

宿場町
千住下宿
南千住
奥の細道矢立の碑
日光街道道標
掃部堤
やっちゃ場
掃部宿
千住大橋
芭蕉旅たちの像
入江長八
隅田川
千住の河岸
伊奈忠次
陸羽裏街道


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制作・著作:風になりたや(浜田輝雅)
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