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地図でたどる日光街道TOP > 地図検索 > 47.小金井〜自治医大(説明)

仲間と出会う、感動と出会うクラブツーリズムの旅/東京23区発バスツアー
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日本橋から日光東照宮までの街道沿いで紹介したい宿泊施設や食事店がありましたらご連絡ください。


第十四次小金井宿〜第十五次石橋宿  47.小金井〜自治医大  48.自治医大〜倉井  49.倉井〜下石橋北  50.下石橋北〜石橋

小金井から自治医大まで
マクドナルド、セブンイレブンあたりから小金井宿がはじまる。鈴木薬局のところに歩道橋があり、ここあたりで旧日光街道と合流していた。信号があり左に行くと小金井宿の語源となった磯ノ宮「小金井 井戸」があった。国道4号線を北へ行くとすぐ信号があり、右に菅井菓子店が佐倉藩の出張陣屋、領主陣屋跡。左に慈眼寺、金井神社がへあり、岡田医院のところに俳諧の句碑、左に四脚門の残る大越家は金井宿本陣跡。右に明治初期呉服屋だってという見世蔵がある。次の信号右に将軍日光市や参のとき、宇都宮城主がここで迎えたという蓮行寺がある。さらに北へ進むと、右に上町公民館、薬師堂がある。このあたりが小金井宿の北の出口だった。その先で国道4号線は少しずつ右にそれていくが、旧日光街道は直進していたが、いまは消滅しているので、国道4号線をしばらく行くと、右に手打そば里味、左にパチンコパーラークィーンエリザベスがある。そこを左に入る子蜜があるので入っていくと右に行く道が旧日光街道。





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小金井宿から石橋宿 小金井(栃木県下野市)〜自治医大(栃木県下野市) 1843m 24分

小金井宿(こがねいしゅく、こがねいじゅく)
 江戸時代に日光街道(日光道中)および奥州街道(奥州道中)に設けられた下野国の宿場。現在の栃木県下野市小金井に相当する。日光街道の江戸・日本橋から数えて14番目の宿場である。
宿駅の管理は、当初は壬生藩だったが、元禄9年(1696年)以降は幕府、宝暦13年(1763年)以降は下総佐倉藩、天明7年(1787年)以降は幕府、寛政11年(1799年)以降は再び佐倉藩が担った。現在の国道4号沿いの小金井駅前交差点の北側に展開しており、南(江戸側)から下町・中町・上町より構成された。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、小金井宿は笹原新田と合わせ距離29町、町並6町42間、人数767人(男374人、女393人)、家数165軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒、問屋場1軒、宿建人馬25人25疋、宿高小金井宿1269.986、笹原新田123.947であった。
 「小金井」という地名は、近くに小金井と呼ばれた湧水の池があり、「旱魃のときにも枯れることがなかった、池の中から黄金が出てきた」という伝承に由来する。この井から「金井村」という村名が生じ、のちに「小金井村」となった。(天保14年・1843年頃作成と推定される『日光道中略記』より)
江戸時代以前からの古い宿場であり、15〜16世紀には集落が形成されて、「奥大道」すなわち鎌倉街道中道(なかつみち)の「金井宿」と呼ばれていた(『蓮行寺文書』等)。


宿高(しゅくだか)とは 農作物などを米の取れ高に換算して、村や町宿場の規模を表示したものです。単位は石・斗・升・合・勺(しゃく)で、1石は10斗、、1斗は10升、1升は10合となります。1合は10勺となります。1升は約1.8?(一升瓶1本分)で、1石は一升瓶100本分の量となります。なお、1俵はおおよそ3斗5升のお米を入れました。

町(ちょう)と間(けん)とは 町と間は、長さを測るときの単位のことです。1町は約109.09mとなります。1町は60間です。1間は6尺(しゃく)で、約1.82mになります。なお、町・間・尺は時代によっても少しずつ長さが異なりました。

本陣・脇本陣・旅籠とは いずれも旅館です。本陣・脇本陣は、参勤交代の大名や勅使・公卿といった貴人が宿泊しました。本陣が利用できないときには、かわりに脇本陣が利用されました。一般旅人が宿泊する旅籠があります。旅籠は、食事つきの宿泊施設です。

問屋場(とんやば)とは 問屋(といや・とんや)ともいい、次の宿場まで乗り継ぐ人足や馬を用意したり、公用の出張者の旅館手配など、宿場業務を取り扱う施設のことをいいます。

宿建人馬(しゅくだてじんば)とは 参勤大名や役人などが通行するときに、宿場で用意する人足(にんそく)
と馬の最大数のことです。足りない分は助郷(すけごう)として、周辺の村々から調達しました。本来50人50疋を割り当てられていましたが、文化5年(1808)に35人35疋に変更されました。

一里塚: 江戸(東京)日本橋から22里(約86.4キロメートル)地点の一里塚である。明治期の国道整備の際、新田宿と小金井宿の間は、旧街道の東側に並行して新しい道路を開通させたため、東西の2つの塚がほぼ原形のまま残された。日光街道の一里塚では、唯一、国の史跡に指定されている。経年変化で円形化しているが、本来は方形の塚である。東西の塚にはそれぞれ榎が植えられており、東塚には椚も混生している。周辺は平成9年(1997年)に史跡ポケット広場として整備された。

慈眼寺: 真言宗智山派の寺院。正式には「金剛乗院多宝山慈眼寺」という。建久7年(1196年)、新田義兼により建立されたと伝わる。 江戸時代の日光社参では、境内に将軍の休息所・昼休所が設けられる。天和2年(1682年)に解体された小山宿の小山御殿の代替施設だった。 将軍の「御座所」とその付随施設は幕府が整備したが、他の寺の建物も見苦しくないように修繕され、佐倉藩と寺が費用を負担した。 江戸時代には将軍・徳川家光より朱印地 20石を与えられている。当時の建物は、明治元年(1868年)の火災でほとんどが失われたが、観音堂と鐘楼堂は現存している。

助郷の村々
各宿場町では、参勤交代や公用の人や物を運ぶために人馬を常備する必要があったが、これを助けるために近隣の村々が助郷に指定された。元禄10年(1697年)の助郷村は、現下野市(旧南河内町)の薬師寺村・町田村・東根村・田中村・磯部村・下文挟村・谷地賀村・中川島村、上吉田村・下坪山村・上坪山村・仁良川村・別当河原村、および、上三川町の三村・三本木村・坂上村の17カ村であった。(『日光海道小金井町助郷帳』)Wikipediaより

俳諧の句碑
この碑は、文化四年(1807)に小金井宿蔵田屋(大越家)の屋敷内に建てられた、俳諧の句碑です。句碑の一面には慈眼寺三十世住職である宜照による四季の発句と、江戸談林俳諧の頂点にあった、谷素外の発句の下に小金井宿の俳人十二人発句が刻まれています。この句碑は、江戸時代後期の小金井宿において文学活動がさかんにおこなわれていたことを今に伝えています。平成十五年十一月吉日 蔵田屋当主 大越秀雄 建之

領主陣屋跡
 領主陣屋は佐倉藩の出張陣屋と思われます。現在は菅井菓子店となり、同家は陣屋との直接の関係はないものの、陣屋の代官(出没)を努め、明治以降もこの地に居住した大槻氏の位牌を今もまつっています。「日光街道ルネッサンス21」より

慈眼寺・将軍御休処
 上野国の豪族である新田義兼により建久7(1196)年に創建された古刹です。境内には、江戸時代の建造物として観音堂や鐘楼が現存しています。また、本堂南側には徳川将軍社参の際の御成御殿がありました。 「日光街道ルネッサンス21」より

磯宮(小金井宿の語源) 
 この辺りに宿場の語源となった「小金井」と呼ばれる井戸があり、徳川将軍社参時の御膳水に使われたといわれます。現在は運動公園として整備され、井戸や磯宮の位置は特定できません。 「日光街道ルネッサンス21」より

金井神社
 本殿は一間社三方入母屋造りという建築様式で、壁面には天保〜嘉永期(1830〜50年代)の製作と推定される壮麗な彫刻が施されています。古くから小金井宿の鎮守として信仰されてきた神社でもありました。
 「日光街道ルネッサンス21」より

小金井宿旧本陣跡
 本陣跡を示す門が残されています。この旧本陣には、明治22(1889)年に国分寺村が発足したとき、村役場が置かれていました。 「日光街道ルネッサンス21」より

江戸時代の姿をとどめる一里塚が残る
小金井宿
 もとの名である金井村は、宿場の西、磯宮あたりにあった小金井の井戸から名付けられたもので、集落も磯宮付近にありました。慶長9(1604)年までに人家が移り町割りが行われ、その時に村名も小金井に改められたといいます。
 小金井宿は江戸から14番目の宿場。天保14(1843)年の記録では、宿内の長さは南北6町42間(約730m)、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は43軒ありました。日光側から上町・中町・下町となっていて、中町に本陣、脇本陣があったようです。
 現在も残る「小金井一里塚」は、旧街道を挟んで左右の塚がほぼ原形をとどめており、日光街道の貴重な遺構の一つとなっています。 「日光街道ルネッサンス21」より

宇都宮城主が出迎える
連行寺(れんぎょうじ)
 元徳元(1329)年、日秀上人の開基で、一説には日行上人の創建ともいわれます。徳川将軍の日光社参の際には、宇都宮城主がこの寺で出迎えることになっていたところです。 「日光街道ルネッサンス21」より

天平文化を今に伝えるしもつけ風土記の丘
 ここには、今から約1300年前の天平年間に聖武天皇の発願によって建てられた下野国分寺と下野国分尼寺がありました。現在、その史跡が保存され、周辺には県立しもつけ風土記の丘資料館や県埋蔵文化センター、民俗資料館、天平の丘公園、花広場などが整備され、豊かな自然の中で栄華を極めた天平文化に触れることができます。また、近年の調査によって、この下野国分二寺に近い南方から下野薬師寺方面に向かって、古代の官道(幹線道路)である東山道(とうさんどう)が延びていたことがわかっています。JR小金井駅西口から西へ4km、タクシー15分。小金井駅西口に貸自転車もあり。 「日光街道ルネッサンス21」より
 
薬師堂
 現在は上町公民館となっており、境内には歴代の住職の墓石と思われる卵塔(らんとう)や地蔵などがあります。一説には、この薬師堂の本尊は奈良時代の僧である行基の作ともいわれています。 「日光街道ルネッサンス21」より

○大山神社

石仏群
俳諧の句碑
本陣
見世蔵
小金井
栃木県
鐘楼
下野市
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