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地図でたどる日光街道TOP > 地図検索 > 39.仏光寺~間々田(説明
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日本橋から日光東照宮までの街道沿いで紹介したい宿泊施設や食事店がありましたらご連絡下さい。

第十次野木宿~第十一次間々田宿  37.野木~愛宕神社  38.愛宕神社~仏光寺  39.仏光寺~間々田宿  ⇒間々田宿~小山宿へ

仏光寺から間々田宿まで
仏光寺を過ぎ乙女の信号を左に行く道は県道50号線・藤岡乙女線(古乙女川岸道)で、「右山川 しもまつもろ川 左まま田 小山 いうき」と刻まれた馬頭観音、さらに、乙女大橋、東照宮建立の時、資材を荷揚げした乙女河岸がある。乙女の交差点を過ぎると間々田駅入口の信号を右へ3分ほど行くと間々田駅。左へ行くと小山市立博物館、史跡乙女不動原瓦窯跡、泉龍寺、乙女不動尊がある。間々田駅入口信号を進むと右に乙女河岸で肥料問屋「東屋」を営んだ豪商小川住宅は小山市立東屋美術館となっいる。さらに進み消防署の先に江戸と日光東照宮の中間地点といわれる逢いの榎がある。その先歩道橋、琴平神社あたりが間々田宿の江戸側入口で、かつて土塁や柵があった。いまでも古い町並みとなっている。左に龍昌寺、手編みの組ひも「間々田ひも」のお店がある。日光街道をさらに進むと間々田の信号があり、左に脇本陣、問屋場跡右に東京から72㎞の標柱、栗原電気の先が本陣、右が高札場であった。さらに進み間々田4の信号を過ぎると、右に行泉寺、左に浄光院がある。この先が宿の北の出口であった。



初めて歩く人のために - 【 歩く地図でたどる日光街道 】説明   ↑TOPへ
間々田宿から小山宿 仏光寺(栃木県小山市)~間々田宿(栃木県小山市) 2063m 26分

間々田宿(ままだじゅく)
 江戸時代に日光街道(日光道中)に設けられた下野国の宿場。現在は栃木県小山市間々田に相当する。日光街道の江戸・日本橋から数えて11番目の宿場である。
 元和4年(1618年)に宿駅に指定された。宿駅の管理は、寛永10年(1633年)以降は古河藩、正徳2年(1712年)以降は幕府、安永3年(1774年)以降は宇都宮藩が担った。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、間々田宿の距離1里余、宿高944.088、町並9町50間、人数947人(男440人、女507人)、家数175軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠50軒(大5,中17,小28)、問屋場3軒、宿建人馬25人25疋でぁつた。
 おおむね現在の国道4号線沿いの龍昌寺から浄光院・行泉寺間に展開し、南(江戸側)から下町・中町・上町・土手向町より構成された。本陣・脇本陣は中町にあった。Wikipediaより

宿高(しゅくだか)とは 農作物などを米の取れ高に換算して、村や町宿場の規模を表示したものです。単位は石・斗・升・合・勺(しゃく)で、1石は10斗、、1斗は10升、1升は10合となります。1合は10勺となります。1升は約1.8?(一升瓶1本分)で、1石は一升瓶100本分の量となります。なお、1俵はおおよそ3斗5升のお米を入れました。

町(ちょう)と間(けん)とは 町と間は、長さを測るときの単位のことです。1町は約109.09mとなります。1町は60間です。1間は6尺(しゃく)で、約1.82mになります。なお、町・間・尺は時代によっても少しずつ長さが異なりました。

本陣・脇本陣・旅籠とは いずれも旅館です。本陣・脇本陣は、参勤交代の大名や勅使・公卿といった貴人が宿泊しました。本陣が利用できないときには、かわりに脇本陣が利用されました。一般旅人が宿泊する旅籠があります。旅籠は、食事つきの宿泊施設です。

問屋場(とんやば)とは 問屋(といや・とんや)ともいい、次の宿場まで乗り継ぐ人足や馬を用意したり、公用の出張者の旅館手配など、宿場業務を取り扱う施設のことをいいます。

宿建人馬(しゅくだてじんば)とは 参勤大名や役人などが通行するときに、宿場で用意する人足(にんそく)
と馬の最大数のことです。足りない分は助郷(すけごう)として、周辺の村々から調達しました。本来50人50疋を割り当てられていましたが、文化5年(1808)に35人35疋に変更されました。

乙女河岸
 かつて間々田宿西方の思川に設けられていた河岸。日光東照宮造営の際には、多くの資材が船で運ばれたが、江戸川・利根川・渡良瀬川を経由した資材は、ここで陸揚げ・集積され、日光街道・壬生通りを経て日光に運び込まれた。Wikipediaより

旧小川家住宅(小山市立車屋美術館)
 乙女河岸で肥料問屋を営んでいた車屋(小川家)が、大正元年前後に日光街道沿いに移転・建築したもの。特に土蔵は乙女河岸から移築され、その唯一とも言える遺構である。現在は改装され、美術館として使用されている。Wikipediaより

助郷の村々
 各宿場町では、参勤交代や公用の人や物を運ぶために人馬を常備する必要があったが、これを助けるために近隣の村々が定助郷に指定された。間々田宿では、網戸・間中・寒川・中里・鏡・乙女・小袋・下河原田・野田・粟宮など25カ村が指定されていた。Wikipediaより

○小山市立博物館

とちぎふれあい自然歩道 歴史の道
「歴史の道」の案内
小山市教育委員会では、市民の皆様の健康増進をかね歴史を散策していただくため城山公園から市立博物館を下記のとおり自然散歩道「歴史の道」として選定いたしました。
 「歴史の道」の中には古墳、窯跡、城跡、鎌倉道などの史跡や神社、仏閣の文化財、歴史と文学とのふれあい、並木道、境内林、古木、天然記念物や自然散歩、山野草の観察、スポーツ、森林浴などを通して、自然とふれ合う市民の道として活用いただけるよう配慮いたしましたので、ご利用ください。(城山公園から博物館まで、全長約12km)
JR間々田駅からJR小山駅までの歴史の道コース
市立博物館(乙女1-31-7)→乙女不動原瓦窯跡(乙女1-126-1外)→間々田八幡宮(間々田2330)→千駄塚(千駄塚144-1)→安房神社(栗宮1615)→鷲城跡(外ノ城306-1)→西林寺(神鳥谷695)→光明寺(神鳥谷695)→持宝持(宮本町2-13-15)→須賀神社(宮本町1-2-4)→愛宕神社(宮本町1-1-7)→現声寺(宮本町2-1-17)→常光寺(中央町3-11-28)→小山市役所(中央町1-1-1)→城山公園(城山町・本郷町)→興法寺(本郷町2-7-37)→天翁院(本郷町1-9-10) 小山市教育委員会

史跡乙女不動原瓦窯跡(おとめふどうはらかわらかまあと)
 指定人月日 昭和53年5月11日 指定面積 6,174.78㎡
 乙女不動原窯跡は古代下野国の寒川郡に位置し、古瓦が出土する遺跡として古くから注目されていました。
 昭和52年の確認調査や昭和63年から5ヶ年にわたる発掘調査の結果、瓦を焼いた4基の窯のほか、工房や粘土採掘抗(ねんどさいくつこう)・粘土溜(ねんどだめ)・瓦集積場・灰原(はいはら)など、瓦生産に関するさまざまな遺構が発掘されました。また、出土品には丸瓦や平瓦が多数ありますが、八葉複弁蓮華文軒丸瓦(はちようふくべんれんげもんのきまるがわら)や笵傷(はんきず)のある均正唐草文軒平瓦、文字の書かれた文字瓦も見つかっています。
 ここで焼かれた瓦は、下野薬師寺や下野国分寺(しもつけこくぶんじ)などの寺跡、あるいは宇都宮市の水道山瓦窯跡から出土した瓦と共通した特徴をもち、供給先や工人の動きを知ることができました。
 また、当窯跡には有牀式平窯(ゆうしょうしきひらがま)と呼ばれる最新の窯がいち早く導入されています。このことからも、国家的な事業であった下野薬師寺の再建や国分寺造営の一躍を担った当窯跡の重要性を物語ることができます。

○泉龍寺
○乙女不動尊

日光街道中間点 逢の榎
 元和3年(1617)、徳川家康が日光に祀られると、日光街道は社参の道として整備されていき、21の宿が設けられました。
 宇都宮までは奥州街道と重なっていたため、諸大名の参勤交代や物資の輸送、一般の旅人などにも利用された道でもありました。
 間々田宿は、翌年には宿駅に指定され、江戸および日光から、それぞれ11番目の宿場にあたり、距離もほぼ18里(約72km)の中間点に位置していました。
 天保14年(1843)、間々田宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠が50軒ほどあり、旅人が多く宿泊し、賑わっていました。松尾芭蕉などの文化人も宿泊しています。
 また、中田宿(茨城県古河市)から小金井宿付近までの街道沿いには、松並木が続き、一里塚には杉・榎などが植えられ、旅人の手助けとなっていました。
 間々田宿の入口にあった榎は、毎年、街道を通った例幣使が江戸と日光の中間に、この榎を植えて、旅の道のりを知ったのだという伝承が残されています。榎は「間(あい)の榎」とよばれ、旅人の目印となっていました。
 この榎は、いつの頃からか「逢の榎」とよばれるようになり、縁結びの木として人々の信仰を集めるようになりました。祖師堂も建てられ、お参りする男女が多かったと伝えられています。
 (昭和34年1959頃の写真と「日光道中分間延絵図」東京国立博物館蔵)

○琴平神社
○竜昌寺(龍昌寺)

間々田宿問屋場跡
 間々田宿は、江戸時代に、五街道の一つ、日光街道(道中)の宿駅として栄えていました。江戸日本橋から11番目の宿駅(宿場)であり、江戸と日光の中間に位置していました。
 天保14年(1843)の記録によると当宿は、石高944石、家数175軒、人口947人、旅籠50軒、本陣1、脇本陣1と記されており、幕府の定めより、常備の人足25人、馬25疋(ひき)を備え、幕府の公用に応じたり、一般の輸送も引き受けていました。日光社参・参勤交代など特別の場合は近隣の農村から助号(すけごう)と称して、人馬を臨時に集めました。
 それらの人馬継立業務の一切を取扱うのが宿役人で、問屋・年寄・帳付・馬差・人足差などと呼ばれ、その詰所に当たる場所が問屋場です。ここ間々田宿の上中町の上原家が、名主職を兼ね、代々世襲で幕末まで問屋を務めていました。 間々田商工会 小山歴史研究会

間々田宿本陣跡
 本陣は江戸時代に主な街道に設けられた宿泊施設で、本来は幕府公用の大名・勅使・公家・門跡(僧)上級武士の便をはかるためのものでした。大名などが宿泊休憩するときは宿場や本陣の入口に「関札(せきふだ)」を掲げ、誰が宿泊休憩しているか知らせました。また本陣には定紋入りの提灯を掲げ、門や玄関には幕を張りました。 
 本陣主人は名字帯刀を許され、他の宿役人と共に、大名などを宿の入口まで出迎えました。江戸時代の初めから江戸時代を通して青木家が代々、この地で本陣を維持し、明治の世となって明治天皇が休憩の一時を過ごされました。 間々田商工会 小山歴史研究会

○脇本陣
○浄光院
○行泉寺
 
間々田八幡宮由緒
 間々田八幡宮の創建は古く、今から約1200有余年前の天平年間に勧請されたものと伝えられている。天慶2年(939)平将門の乱が起るや、朝廷は藤原秀郷等に勅して之を討たした。秀郷は征討に臨み沿道の神社仏閣に戦勝を祈願し、乱平定ののち、当八幡宮に神饌御料として供田した。これより後、里人、飯田(まんまだ)の里と呼称した。
 文治5年(1189)陸奥の泰衡の乱に征討の軍を率いた源頼朝は、藤原秀郷、当八幡宮に将門調伏の祈誓ありしを聞き、戦勝を祈願し松樹を植えた。後に人これを「頼朝手植の松」と称し近年に及ぶが、惜しいかな明治38年枯死した。徳川幕府、家康の遺骨を日光山に遷し、日光街道18駅を置く行程38里なり、日光・江戸の中間なるをもって間々田と改称した。
 また、朝廷は日光東照宮に例幣使をさしつかわし、例年、幣帛を賜るが、その道中当駅をへるに鎮座せる神社の由緒あるを聞き、当八幡宮を必ず参拝されるを例とされ、享和年間の社殿焼失まで続いたと言い伝えられている。
 聖徳2年(1712)6月神衹より神階正一位の宣旨を受ける。
 享和年間に失火し、社殿ことごとく灰燼に帰した。よって御神霊を仮殿に安置し、嘉永4年(1851)に至り現在の社殿を再建した。建立に関係した宮大工は、折しも東照宮大修理にあたって各地から招かれた、宮大工であったと伝えられ、ご本殿の彫刻には、その優秀な技術をしのぶことができる。
 当八幡宮境内はこの近隣に類を見ないほど広大で、小山市に貸与してある公園の部分を含めると約2万坪の敷地を有している。数百年の樹齢を数える杉の古木が荘厳な雰囲気を醸し出し、緋鯉、真鯉の遊泳する神の池には、春の桜、秋の紅葉がその艶やかな姿を映し、氏子崇敬者や市民の憩いの場となっている。
 また、松尾芭蕉は、奥の細道紀行で江戸を出発して2日目に間々田宿に宿泊しているが、その芭蕉に因んだ句碑「古池や蛙飛び込む水の音」が立てられている。この句碑は病気平癒を祈願した氏子が、全快のお礼に嘉永年間建立したもののであるが、御神徳による霊位は古い昔から伝えられるところであり、近年でも足を病んで歩行できなかった茨城の婦人が、夢に見た当神社を写真に撮り、朝夕拝んだところ病たちまち癒えたとお礼参りに来られたり、都内に本社をく会社の社長は、当神社に祈願し、社殿下の砂を拝領して会社を起こして見事に成功した例など枚挙にいとまがない。これ偏に遠く天平の昔より間々田八幡宮のご加護を信じ、崇拝し、神社護持に力を尽くした氏子崇拝者の赤心に有難きご神徳に益々発揚されている証しであろう。

間々田八幡宮のコナラ
 コナラはブナ科の落葉高木で、日当たりのよい山野に普通にみられる。その分布は広く日本全国におよび、二次林を構成する。二次林は自然林が人間によって伐採、又は火入れなどによって破壊されたあとにできる。
 このコナラ3本(左図イ・ロ・ハ)は、推定樹齢130年以上で、シラカシ、モミの中に混生し、二次林の次にくる極相林(きょくそうりん)への過程にあることを示している。かっての地域の森林の成り立ちを知る上で、特に保存したい樹木である。
 樹高約15~20m 目通り約2m 枝張り東西約11~20m 南北約9~19m
 指定年月日 昭和55年5月1日 所在地 小山市間々田2330番地
 所有者(管理者) 間々田八幡宮  小山市教育委員会

間々田宿の力石
「大正2年」友沼宿迄持ち去られたが当宿の力持ち田口文治郎、田口玉吉、上原新平の3名が一度も地上に置かずに担いで持ち帰ったと伝えられている。重さ28貫 (110kg)ほかに28貫の石が弁天島の松の根元にもあります。 雀心玉

馬頭観世音

乙女川岸道

乙女河岸
乙女大橋

東屋美術館

小山市立博物館

乙女不動瓦

間々田ひも手組みの日本古来の紐で、その昔は武士の冑の緒や下げ緒などとして愛用され、現在は婦人の帯紐、男性女性の羽織紐やループタイなど多種多様に用いられています。間々田紐は大正中期、初代の渡辺浅市が東京の組紐問屋深井誠太郎商店での年期奉公から実家の間々田に戻り、下請けとして店を構えたのがその始まりです。その後の昭和29年、民芸研究家の柳 宗悦先生、近藤 京嗣先生 が訪問され、「真田紐」の真田と地名である間々田の語呂が似通っているところから「間々田紐」と命名されました。特に益子町の日下田 博氏(栃木県無形文化財技術保持者)の染め上げた絹糸を使った草木染の作品は柳 宗悦先生から高い評価をいただきました。草木染の素朴で使えば使うほど味がでる風合い、機械ものとは違う手組みのやわらかさと上品さ、そして帯〆は一度締めると緩まず、着崩れを起こさないのが特徴です。現在はこの他ネックレス、眼鏡紐、携帯ストラップなどさまざまな組紐を製造しており、栃木県の伝統工芸品に指定されています。2代目浅市が平成11年惜しくも病のためこの世を去った後、伝統の火を絶やすまいと妻悦子が後を継ぎ、親族の助言協力を得て伝統ある間々田紐の技術を守り続けています。間々田紐は栃木県の民芸品として今なお生き続けているのです。営業時間:AM10:00~PM7:00 (日曜日 PM6:00まで) 定休日:月曜日(祝日は営業、火曜日振替) 〒329-0205 栃木県小山市間々田1315-2 日光街道(旧国道4号線)沿い T:0285-45-0343 F:0285-45-5714

間々田宿脇本陣

館野氏

間々田宿高札場

青木氏宅

乙女

間々田

栃木県

小山市

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