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地図でたどる日光街道TOP > 地図検索 > 35.古河〜松並(説明

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日本橋から日光東照宮までの街道沿いで紹介したい宿泊施設や食事店がありましたらご連絡下さい。

第九次古河宿〜第十次野木宿  35.古河〜松並  36.松並〜野木 

古河から松並まで
市街地の整備された道はいかにも古河市の中心部であることを感じさせる。道路右が本町3丁目、左が中央町3丁目。信号の所日光参拝の歴代将軍を古河藩がここに茶屋を設けもてなしていたという「御茶屋口門址」の碑がある。ここを左に曲がり、T字路を右さらに左、つきあたりが石垣でお堀となっている、右に古河文学館、正面が出城跡で、古河歴史博物館になっている。古河宿の模型などがある。左の建物は古河藩家老、鷹見泉石の住居を復元した鷹見泉石記念館。鷹見泉石記念館を左に、歴史博物館を右に見ながら歩くと、T字路にでる。右角が駐車場。この交差点を右に行く。左に長谷観音がある。すぐT字路になっており、左に入っていくと古河城御成門跡、家老屋敷の長屋門跡、古河城獅子崎の土塁、古河城百間堀跡などがある。ほとんど朽ち果ててきているので保存がのぞまれる。先ほどのT字路に戻り郵便局を左に歩くと信号がある。右に家老鷹見泉石生誕の地碑がある。

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古河宿から野木宿 本町(茨城県古河市)〜古河宿〜松並(茨城県古河市) 1978m 25分

古河宿(こがしゅく、こがじゅく)
 江戸時代の日光街道(日光道中)の宿場。下総国の古河城下に設けられ、現在は茨城県古河市中央町・本町・横山町に相当する。日光街道の江戸・日本橋から数えて9番目の宿場である。
 江戸時代の全期を通じて、古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つである。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、古河宿は距離1里20町、宿高2037.740、町並19町18間、人数3865人(男1992人、女1873人)、家数1105軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒(大5,中6,小20)、問屋場4軒、宿建人馬25人25疋であった。
 将軍家による日光社参では、古河城は岩槻城・宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、日光街道における主要な宿場の一つであった。日光社参のときには、従者の数が膨大になるため、通常の宿泊施設だけでは足りずに、城下の武家屋敷や町屋も割り当てられた。宿場は日光街道沿いの台町・一丁目・二丁目・横町(現在の本町・中央町・横山町の一部)にあったが、渡良瀬川等による河川交通も発達していたことから、古河の町は日光街道から河岸へ向けて折れ曲がった石町・江戸町等にも広がり、T字型に形成されていた。大名が宿泊する本陣は時期により異なるが、最もよく知られているのは二丁目にあったもので、現在、跡地には「本陣跡碑」がある。脇本陣も二丁目にあった。Wikipediaより

宿高(しゅくだか)とは 農作物などを米の取れ高に換算して、村や町宿場の規模を表示したものです。単位は石・斗・升・合・勺(しゃく)で、1石は10斗、、1斗は10升、1升は10合となります。1合は10勺となります。1升は約1.8?(一升瓶1本分)で、1石は一升瓶100本分の量となります。なお、1俵はおおよそ3斗5升のお米を入れました。

町(ちょう)と間(けん)とは 町と間は、長さを測るときの単位のことです。1町は約109.09mとなります。1町は60間です。1間は6尺(しゃく)で、約1.82mになります。なお、町・間・尺は時代によっても少しずつ長さが異なりました。

本陣・脇本陣・旅籠とは いずれも旅館です。本陣・脇本陣は、参勤交代の大名や勅使・公卿といった貴人が宿泊しました。本陣が利用できないときには、かわりに脇本陣が利用されました。一般旅人が宿泊する旅籠があります。旅籠は、食事つきの宿泊施設です。

問屋場(とんやば)とは 問屋(といや・とんや)ともいい、次の宿場まで乗り継ぐ人足や馬を用意したり、公用の出張者の旅館手配など、宿場業務を取り扱う施設のことをいいます。

宿建人馬(しゅくだてじんば)とは 参勤大名や役人などが通行するときに、宿場で用意する人足(にんそく)
と馬の最大数のことです。足りない分は助郷(すけごう)として、周辺の村々から調達しました。本来50人50疋を割り当てられていましたが、文化5年(1808)に35人35疋に変更されました。

 町割りの特徴は、古河城の主要な出入口が北側にあり、西側に渡良瀬川があることから、城下町・宿場町が城の北側と東側に集中していることである。また、このために城と上級武士の住居が低地にあり、町人や下級武士の住居が台地上となっており、他の城下に見られない個性的な景観をなしていた。 以下、個々の町通りについて説明する。Wikipediaより

町人町
 日光街道に面した町を「通町」と呼び、他は「脇町」と呼んだ。また町の発展に伴い、本町とされた通町・脇町から枝町が派生した。享保12年(1727年)の文書による町全体の構成 と、各町の由来・特徴等を示す。Wikipediaより

通町
 下記4ヵ町。宿泊施設である旅籠と茶屋が集中していた。Wikipediaより

横町(よこまち)
 江戸時代の初期は、二丁目から街道を北上・左折した先の二丁目曲の手を「横町」と呼び、さらに右折して本成寺に至る町通りを「野木町」と呼んでいたが、のちに野木町が横町と呼ばれるようになった。本来の「横町」は街道筋が一旦、横にずれる町の意であろう。寛永期(1624年〜1645年)の絵図では「野木町」とされた町通りが、慶応年間(1865年〜1868年)には「横町」になっている。明治期に横山町と改称されている。Wikipediaより

一丁目・二丁目(いっちょうめ・にちょうめ)
 町の中心部を一丁目と二丁目に分けたもの。特に二丁目は大きな商家が多く、江戸時代後期には城下最大の豪商だった八百屋(丸山)儀左衛門もここにあった。丸山家は当初の商売だった八百屋を屋号としたが、次第に手を広げ、旧藩主・堀田正仲の転封先・ 山形藩の特産品である紅花を扱うことで財をなした。本陣や高札場も二丁目にあった。Wikipediaより

台町(だいまち)
 原町が出来る前は城下の台であったことに由来。Wikipediaより

原町(はらまち)
 もとは「原村」だったが、城主が土井利勝のころ町になり、城下の拡張に伴い編入された。Wikipediaより

脇町・街道東側
鍛冶町(かじまち)
 城出入りの鍛冶職人が居た。江戸時代初期、奥平忠昌が城主の頃、野木神社周辺の鍛冶屋21戸を移転・集住させた。古河は冬季に西風が強くなるため、火を扱う鍛冶屋は、火災対策として東はずれの風下に配置された。のちの江戸時代中期には職人は転出し、商家が並び建つようになる。 ここにあった商家のうち、今城商店(みらい蔵)については後述。その隣には「竹駒稲荷神社」(後述)がある。Wikipediaより

新町(北新町・南新町)(きたしんまち・みなみしんまち)
 家数が増えたため、街道の東側に新しい町通りが自然に形成されたもの。宝暦年間(1751年〜1763年)に北新町と南新町に分離したと考えられる。Wikipediaより

八幡町(やわたまち)
 八幡宮があることに由来。 天保2年(1831年)開業の青木酒造がある。Wikipediaより

脇町・街道西側
石町(こくちょう)
 米穀商が軒を連ねていた。「穀」が「石」に転じたもの。明治中期には14件の米穀問屋が残っていた。江戸時代からの金物商・八百藤(昭和37年(1962年閉業)もここにあり、近代には関東はもとより東北・北海道にまで農具を出荷していた。Wikipediaより

江戸町(えどまち)
 大きな商家が連なり、城下で最も賑わう町通りだったため、江戸を思わせるとされた。 ここにあった商家のうち「作家・永井路子旧宅」については後述。Wikipediaより

大工町(だいくちょう)
 城出入りの大工職人が居た。江戸時代中期には職人は転出し、商家が並び建つようになった。 このうち「坂長」については後述。Wikipediaより

脇町・川沿い
悪戸新田(あくとしんでん)
 慶長・元和年間(1596年〜1624年)に古河町の人々により開拓。地名のアクトはアクツ・アクドと同様に卑湿の地を示しおり、東日本の随所で見られる。Wikipediaより

船渡町(ふなとまち)
 船渡河岸があり、河岸問屋・井上平兵衛家を筆頭に船主・筏師が集まっていた。思川・渡良瀬川・ 利根川の結節点であるため、古河藩内の穀類等はもとより、 下野国各地から江戸への物資も高瀬舟で運ばれ集積された。また江戸から北関東の農家向けには、肥料や生活必需品が運び込まれて流通拠点となっていた。Wikipediaより

枝町
紺屋町(こんやまち)
 横町の枝町。城出入りの紺屋職人が居た。大正期まで「大紺屋」と呼ばれた日野屋があり、旧古河市役所(現在の古河テクノビジネス専門学校)の敷地はその乾場だった。Wikipediaより

天神町(てんじんちょう)
 横町の枝町(のち武家地に編入)。地福院にあった天満宮に由来。 なお地福院は明治初期に廃寺。

田町(たまち)
 江戸町の枝町。低地で田圃があったことに由来すると考えられている。

青物町
 一丁目の枝町。青物の卸売商・八百屋四郎兵衛があった。

七軒町(しちけんちょう)
 新町の枝町。家が七軒あったことに由来すると考えられている。明治期以降に家数が増えた。

肴町(さかなまち)
 一丁目の枝町。

元肴町(本肴町)(もとさかなまち)
 二丁目の枝町。

四谷・嵯峨
 石町の枝町。Wikipediaより


武家町(屋敷町)
以下、屋敷町とも呼ばれた武家町について、説明する。

厩町(うまやちょう)
 藩の馬屋があった。

白壁町(しらかべちょう)
 明確な記録はないが、江戸時代の初期に白壁の目立つ大きな屋敷があったことに由来すると考えられる。

仲之町(なかのちょう)
 厩町と白壁町との間の「仲の通り」とされた。
鳥見町(とりみちょう)
 藩の鳥見役が居住していた。

杉並町(すぎなみちょう)
 江戸時代初期の城主・奥平忠昌により城下町が拡張される前には、ここは町外れに位置し、杉並木があったことに由来。

代官町(だいかんちょう)
 城主が奥平忠昌の頃、代官役の屋敷があった。

三神町(さんじんちょう)
 町内付近に社祠が3つあったことに由来。 三神町の稲荷神社、大工町の恵比須神社(蛭子神社)、および、かつては古河城諏訪曲輪の場所(現在の古河歴史博物館とその周辺)にあった諏訪八幡神社を指していると考えられる。Wikipediaより

片町(かたまち)
 通りの南側が堀で、北側のみ屋敷があったことから片側の町とされた。

六軒町(ろくけんちょう)・四軒町(よんけんちょう)
 片町と合わせて「大通り」と呼ばれ、城内屋敷に住む重臣の次に高禄だった家臣が住んでいた。Wikipediaより

祭礼道
祭礼道とよばれる日光街道のバイパス道が市街地の東側に設けられ、原町口と横町口を結んでいた。雀神社例祭の際には、二丁目・高札場付近にお仮屋が建ち、出社したご神体のまわりに町民が集まっていたため、旅行者を迂回させて町民とのトラブルを防止した。藩主が土井利勝の頃に完成したと考えられている。明治12年(1879年)、米国元大統領・グラントが日光を訪れた際には、お仮屋を街道から離れたところに移動して、一行を通過させているので、このころから廃止されたと考えられる。Wikipediaより

御茶屋口
 大名等の休憩所があった場所。日光社参では、将軍はこの御茶屋口で日光街道から西に入り、三神町通りおよび出城(諏訪曲輪)北側の中道を経て、御成門から城内に入った。 現在は石碑が置かれている。Wikipediaより

日光街道道標
 文久元年(1861年)に古河宿の有志により建てられた。正面には「左日光道」と彫られている。常夜灯形式の道標である。古河市指定有形民俗文化財。100mほど離れた場所に移設されていたが、道路拡幅工事のため、2011年秋より一時的に撤去されている。2013年3月ごろに再設置予定。Wikipediaより

本陣跡・高札場跡
 二丁目の本陣(吉沢幸之助)跡に石碑が置かれている。ここは大きな商家が連なる石町・江戸町、さらには城への入口にもあたり、城下の中でも最も賑わう辻になっていた。 また、街道を挟んだ反対側には高札場があった。ここにも石碑が置かれている。Wikipediaより

脇本陣
 二丁目にあった旧脇本陣は、江戸時代末期に建設され、最近まで「太田屋旅館」として営業していたが、平成11年(1999年)に後継者不在のため閉業し、平成17年に建物も解体された。脇本陣であった時期には入母屋の式台玄関が設けられていた。Wikipediaより

作家永井路子旧宅
江戸町にあった商家。永井路子が幼少期を過ごした旧宅である。永井家は江戸時代からの古い商家で、土蔵造り・2階建ての店蔵が残されており、自由に見学できる。19世紀初頭に初代・永井八郎治が葉茶屋「永井屋」を開業し、のちには陶漆器・砂糖も扱い、質屋も営んだという。Wikipediaより

坂長
大工町にあり、肴町通りとの交差点に位置する商家。「坂長」は 元禄11年(1698年)以前に両替商として開業し、その後、酒問屋に転業。現在は古い建物を活かして改装され、土産物店、オランダ料理のカフェ・レストラン、ギャラリー等の複合施設となっている。店蔵・袖蔵は、古河城内の文庫蔵・乾蔵を移築したとものと伝えられており、国の登録有形文化財である。Wikipediaより

みらい蔵(今城商店)
 鍛冶町にあった商家「今城商店」は弘化年間(1844〜1847年)に開業し、綿・タバコ・ヨシズの販売、塩の元売りなどを行ってきた 。現在、古い建物を活かして改装され、和風レストラン・喫茶店等の複合店舗「みらい蔵」となっている。なお、みらい蔵の周辺は現在も整備中であり、近接する酒井蔵・富岡蔵と広場・歩道とが一体化した空間が生まれる予定になっている。Wikipediaより

鷹見泉石祈念館
 古河城・諏訪曲輪の南側に隣接する武家屋敷。現在は古河歴史博物館の施設として、一般公開されている。Wikipediaより

一向寺
 建治2年(1276年)創建。現在も市内長谷町にある。Wikipediaより

稲荷神社(三神町)
 古河城の鬼門除けとして創建されたと伝わる。現在、毎年1月に開催される「7000歩で歩ける 古河七福神めぐり」コースの一部になっている。Wikipediaより

永井寺
 江戸時代初期の古河城主・永井家の菩提寺。永井直勝により寛永3年(1626年)開基。現在も市内西町(西片町)にある。Wikipediaより

恵比須神社(蛭子神社)
 創建年不詳。もとは大工町の南よりにあったが、明治期に現在地の大工町と肴町の交差点に移転して現在に至る。祭神は蛭子命。 現在、毎年1月に開催される「7000歩で歩ける 古河七福神めぐり」コースの一部になっている。Wikipediaより

西光寺
  元応2年(1320年)の創建とも言われる。延宝8年(1680年)造立で、身の丈が一丈一尺(3.3m)ともいわれた露座の大仏があったが、戦時中の昭和19年(1944年)に供出された。現在も市内本町(鍛冶町)にあり、大仏も昭和54年(1979年)に再建されている。Wikipediaより

浄円寺
  承久2年(1220年)、下野国に創建。移転を繰り返し、元和元年(1615年)より現在地。市内本町(北新町)にある。Wikipediaより

正定寺
 江戸時代に最も長く城主を務めた土井家歴代の菩提寺。土井利勝により寛永10年(1633年)開基。現在も市内大手町(東片町)にある。Wikipediaより

正麟寺
  古河城主・小笠原氏の開基とされる。小笠原秀政が古河に入ったのは天正18年(1590年)である。寺号は小笠原長時の法号による。市内石町に創建され、のちに現在地に移転。現在も市内横山町(横町)にあり、鷹見泉石の墓がある。Wikipediaより

神宮寺
 古河公方・足利成氏が帰依していた僧・良宥により、鎌倉に開かれたのち、成氏とともに古河に移転した。かつては雀神社の別当寺でもあった。現在も市内横山町(二丁目)にある。Wikipediaより

雀神社
 創建は崇神天皇の御代とも、清和天皇の貞観年間(859年〜877年)とも言われている。もとは城内にあったが、慶長10年(1605年)、城主・松平康長による城の拡張のため、町の北西部へ移転。古河公方や江戸時代の歴代城主に崇敬された。現在も市内西町(厩町)にある。Wikipediaより

宗願寺
  建保5年(1217年)、武蔵国の創建だが、焼失したため、慶長2年(1597年)、現在地に再建された。現在も市内中央町(西鷹匠町)にある。Wikipediaより

尊勝院
 古河公方ゆかりの寺院。足利尊氏の父・貞氏が不動明王を厚く信仰し、不動堂を建てたことに始まる。足利成氏とともに鎌倉より古河に移転した。現在も市内本町(二丁目)にある。Wikipediaより

大聖院
 古河公方ゆかりの寺院。もとは足利政氏による大永3年(1523年)開基の「永昌寺」。天正元年(1573年)、足利義氏により義父・北条氏康のための寺として改めて建立、氏康法号の「大聖院」に改称された。現在も市内本町(南新町)にある。Wikipediaより

竹駒稲荷神社
 祭神は宇賀之魂命、境内社として春日神社と金山神社がある。隣接する宝輪寺の守護神であったと伝えられている。 現在も市内本町(鍛冶町)にある。Wikipediaより

徳星寺
 古河公方ゆかりの寺院。建治元年(1275年)、城内・立崎に創建。古河公方の時代には、足利成氏ら歴代公方の祈願所となった。氏姫が市内鴻巣・古河公方館に移ったときに隣接地に移転し、のちに現在地の横山町(横町)に移転した。Wikipediaより

長谷寺
 古河公方ゆかりの寺院。明応2年(1493年)、足利成氏が古河城の鬼門除けとして、鎌倉の長谷寺から十一面観世音菩薩立像を勧請し、堂舎を建立したことが起源。現在も市内長谷町にある。Wikipediaより

八幡神社(北新町)
 古河公方・足利成氏が鎌倉の鶴岡八幡宮を城内・諏訪曲輪の地に勧請したのに始まるとされる。「諏訪八幡神社」とも呼ばれる。寛永13年(1636年)、城の拡張のため現在地に移転。現在も市内本町(北新町)にある。Wikipediaより

八幡神社(八幡町)
 古河公方・足利成氏が鎌倉の鶴岡八幡宮を城内三の丸の地に勧請したのに始まるとされる。寛永19年(1642年)、城主の土井利勝が城の鬼門除けとして現在地に移転。現在も市内本町(八幡町)にある。
福法寺: 建治年間(1275年〜1277年)に武蔵国で創建。下総国佐倉に移った後、寛永8年(1631年)に現在地に移転。現在も市内中央町(大工町)にあり、移築された古河城乾門は市の文化財(建造物)に指定されている。Wikipediaより

宝輪寺
 永仁元年(1292年)あるいは応永2年(1395年)創建。現在も市内本町(鍛冶町)にある。Wikipediaより

本成寺
  延宝年間(1673年〜1680年)、城主・土井利益の母・法清院の菩提を弔うために、猿島郡伏木村から移転。現在も市内横山町(横町)にあり、藩医河口信任、古河誌を著した小出重固の墓もある。Wikipediaより

妙光寺
  正応元年(1288年)、城内の地に開山。慶長年間(1596年〜1615年)、現在地に移転。現在も市内中央町(西鷹匠町)にある。Wikipediaより

隆岩寺
 文禄4年(1595年)、城主・小笠原秀政が開基。現在も市内中央町(田町)にある。Wikipediaより

了正寺
  元和7年(1621年)創建。現在も市内中央町(大工町)にある。Wikipediaより

永仙院
 古河公方ゆかりの寺院。もとは足利成氏開基の「乾享院」。後年、足利晴氏法号の「永仙院」に改称。明治初期に廃寺となり、現在は、市内桜町(長谷村)に市の文化財に指定された歴代住持の墓が残されている。Wikipediaより

助郷の村々
各宿場町では、参勤交代や公用の人や物を運ぶために人馬を常備する必要があったが、これを助けるために近隣の村々が定助郷に指定された。古河宿の場合は、現古河市内の長谷・駒ヶ崎・牧野地・大堤・関戸・稲宮・下辺見・上辺見・大和田・磯辺・西牛ヶ谷・東牛ヶ谷・駒羽根・女沼・小堤・下大野・上大野、および、現加須市(旧北川辺町)内の伊賀袋・柳生・麦倉・向古河・柏戸・小野袋の23カ村である。Wikipediaより

御茶屋口と御成道
 「御茶屋口」、旧日光街道に面するこの口の名前は、かってこの地に存在したとされる「御茶屋」に由来している。それは日光社参(にっこうしゃさん 徳川将軍が、神君徳川家康を祀る日光山へ参詣する行事のこと)に伴い将軍の休憩場として設けられたとされるが、江戸初期のごくわずかな期間に存在したと推定されるこの建造物について今のところ、記録として残る略図以外にその詳細はわからない。 
 ところで、徳川将軍の日光社参は江戸時代を通じて19回行われているが、古河城は、道中における将軍の宿城となることが通例であった。将軍の古河入城に利用された「御成(おなり)」の入口がこの御茶屋口である。
 そして、「御茶屋口」から続く将軍御成の道は、諏訪郭(すわぐるわ 現歴史博物館)を北側に迂回、その後、幅180mに及ぶ「百間堀(ひゃっけんぼり)」を渡す「御成道」を経由して城内に至る。杉並木で飾られた「御成道」と城内との接点には、石垣で堅牢に守られていた「御成門」が将軍をお迎えした。〔御成道推定図参照〕
 なお、将軍休憩の御殿というべき「御茶屋」破却後、その場所の一角には、「御茶屋口番所」が置かれている。これは、古河城下を通行する格式高い大名や幕府閣僚たちの挨拶に応対する役人の詰め所であり、明治維新を迎えるまで存続した。(御茶屋口から古河城御成門までの略図参照) 平成20年1月 古河市教育委員会

肴町の由来
その昔、元和の5年(1619)に奥平忠昌公が古河城主として移封された時代のことです。
忠昌公は、お城の増築や武家屋敷の拡大のために町屋の大移動をはかり、中心部に新しいまちづくりを行いました。
後の大工町や壱丁目、石町、江戸町等は皆その時に名付けられたものです。
江戸時代に古河城下を通過する諸大名は、使者を派遣し挨拶をしに参りました。古河藩からは役人が出向いて歓迎の接待をしたものです。その役所のひとつに使者取次所があり、別名を御馳走番所と言いました。現在米銀の在る処がそれで今の中央町二丁目麻原薬局角から中央町三丁目坂永本店の間、道巾3間半、長さ22間5尺の通りは、「肴町」と呼ばれるようになりました。
以来、この肴町通りは古河城裏木戸をて城内に、お米やお茶、お酒をはじめその他の食料品を供給し、城内との交流の道として栄えて参りました。
今日、食料品を扱う大きな店の構える通りとなっているのもその縁でありましょうか。
歴史の重さがしのばれます。 肴の会

古河市指定文化財・建造物
旧古河城乾門(いぬいもん)
 昭和43年4月1日指定 古河市中央町3丁目9番8号
 この門は江戸時代の旧古河城内の二の丸御殿の入口にあって、乾門と呼ばれた門である。これを明治6年(1873)の古河城取り壊しの祭、福法寺の檀家が払い下げを受けて同寺に寄進・移築した。
 この門の構造は平唐門と呼ばれる形式で、両側には袖塀(そでべい)がつき、向かって右側に潜戸(くぐりど)がある。かっての古河城の姿を現在に伝える数少ない遺構として貴重である。
 平成20年1月 古河市教育委員会

古河城追手門(おおてもん)
 城の大手(正面)にあたり、敵の正面に攻めかかる軍勢(ぐんぜい 追手)を配置することから、城の正面(表門)のことを大手門とか追手門と呼んだ。
 当該地の北に位置する東西方向の大通りを境に、北側は武家屋敷となっていて(片町)、南側は城の堀と5間(約9m)ほどの高さの土塁が構築されており、追手門に入るには堀にかかる橋を渡った。堀の水深は二尺(約60cm)、堀幅は7間(約13m)とも16間(約30m)ともいう。
 門は第一・第二門からなり、その間に枡形(正方形)の空間をもうけた形態であった。まず切妻屋根に竪桟張(たてざんば)りであったかと思われる扉をもった高麗門(第一の門)を入ると、そこは土塁で囲まれた枡形の空間で、右手にいかにも城門らしく豪壮な造りの第二門があった。その第二の門は櫓門と呼ばれるもので、土塁と土塁の間に渡櫓を渡して、下を門とし上を櫓(矢倉)とする形式であった。
 門の創建は、慶長年間(1596〜1615)の松平(戸田)康長のときであったという。
 平成19年1月 古河市教育委員会

古河市指定有形文化財・歴史資料
 頼政神社 手水鉢(ちょうずばち)一基・灯篭二対・狛犬一対
 昭和52年4月4日指定 古河市錦町9番5号
 元禄9年(1696)、古河城主松平信輝は、城内の立ア郭(たつざきくるわ)に先祖源頼政(みなもとのよりまさ)の墳墓(ふんぼ 廟所)があることを知り、その社殿を修築してこれをまつった。その時、信輝の弟で高崎城主であった松平輝貞が大灯籠一対を寄進し、家臣たちが手水鉢一基・灯籠一対を奉納した。
 とくに輝貞寄進の大灯籠は、寄進者は判明しないものの、狛犬一対とともに江戸時代前期のすぐれた作風を今日に伝える石造遺品として注目される。
 なお、頼政神社は大正元年(1912)に河川改修のため、立アから現在地に移された。
 平成19年1月 古河市教育委員会

万葉古河の歌について
 万葉集は日本現存最古の歌集で、8世紀中頃に成立した。全20巻からなり、長歌・旋頭歌(せどうか)・仏足石歌体歌(ぶっそくせきたかたいか)・短歌など4536首の歌を収録し、万葉仮名で書かれている。
 そのうち巻14には、東歌(あずまうた)として238首が収録されている。東歌はすべて作者不詳で、労働・土俗・性愛の表現に特徴があり、東国の方言的要素を含んでいる。また地名を含む歌が多いのが特徴である。
 その中に相聞歌(そうもんか)として古河(許我 こが)の地名を含む歌が2首載っている。
 まくらがの 許我の渡りの からかじの
  音高もな 寝なへ児ゆえに
 (まくらがの古河の渡りのからかじの音が高いように
  高い噂が立ったなあ あの子と共寝をしたわけではないのに)
 逢はずして 行かば惜しけむ まくらがの
  許我こぐ船に 君も逢はぬかも
 (あなたと逢わずに行ってしまったら心残りだろう まくらがの
  古河を漕ぐわたしぶねでなたにお逢いできないものかなあ)
 この二つの歌は、おそらく民謡のように語り歌いつがれていたものであろう。いずれにしても、歌の内容から渡し場であった様子がうかがえ、この古河の地が古くからひらけ、渡良瀬川などの河川や沼を交通路として利用し、河川交通の要所として発展していたことをうかがわせる。
 渡良瀬川堤防上に建つ「万葉古河の歌碑」は、昭和60年(1985)3月に万葉歌碑建設実行委員会(代表渡辺武夫氏)を中心に、たくさんのかたがたの浄財によって建立されたもので、書は生井子華(しくいしか)氏(古河市出身の篆刻てんこく家)の揮毫(きごう)である。 平成19年1月 古河市教育委員会

古河市指定天然記念物
 雀(すずめ)神社の大欅(おおけゆき)
 昭和49年5月23日指定 古河市宮前町4番
ニレ科落葉高木で、雀神社の御神木になっている。市内最高の欅で、平坦地にある巨木として注文に値する。この欅は元来2本あった木が合体したもので、「夫婦欅(めおとけやき)」とも呼ばれている。
 目通り周囲8.8m。根元周囲18m、樹高25m程である。 昭和51年2月 古河市教育委員会

古河市指定文化財・建造物
 旧土井家江戸下屋敷表門(正定寺黒門)
 昭和43年4月氏1日指定 古河市大手町7番1号
 この門はもと東京の本郷にあった旧古河藩主土井家の下屋敷の表門であったが、昭和8年(1933)に土井家の菩提寺である当正定寺に移築・寄進されたものである。
 江戸時代の大名屋敷に多く用いられた薬医門(やくいもん)と呼ばれる形式で、両側に袖塀(そでべい)がつき、向かって左側に潜戸(くぐりど)がある。また、屋根瓦には、土井家の家紋である「水車(みずぐるま)」があしらわれている。 平成20年1月 古河市教育委員会

二丁目曲(かね)の手通り(由来)
 城下町の中の街道は、町の途中で直角に曲がり、先を見通すことができないようにつくられていました。
 古河では、それがこの通りにあたります。南北どちらから来ても、直角に曲がってこの通りに入ります。ちょうど曲尺(かねじゃく)の形なので「曲の手」と呼ばれました。この通りは、もとの日光街道で、元和6年(1620)につくられて、参勤交代などで古河を通る大名の宿泊所となる脇本陣、旅人のための旅籠、それに呉服商や茶問屋などの大店が軒を並べて賑わっていました。
 明治に入ると、戸長役場(のちの市役所)が、はじめは神宮寺、のち新坂に置かれ町の行政の中心地になりました。本脇本陣の太田屋は、明治天皇の行在所(あんざいしょ)として3回も使われ、その建物は現在も残っていて往時を偲ばせています。
 近年には「お茶を飲みましょ曲の手銀座」と歌われ親しまれています。

古河市指定文化財・有形民俗文化財
 日光街道古河宿道標
 昭和52年4月4日指定
 寛永13年(1636)に徳川家康をまつる日光東照宮が完成し、江戸と日光を結ぶ日光街道が整備された。その途中にある古河宿は、日光社参の旅人などの往来でひときわ賑わうようになった。
 日光街道は、江戸から古河に至り、二丁目で突き当たり、左がにつこう土、右が筑波道と分岐するように作られた(絵図参照)。その分岐点に、人々の往来の助けにと建てられたのがこの道標である。
 この道標は文久元年(1861)に太田屋源六(おおたやげんろく)が願(がんしゅ)主となり、八百屋儀左衛門(やおやぎざえもん)ほか11名によって建てられたもので、常夜灯形式の道標として貴重なものである。文字は小山霞外(おやまかがい)・梧岡(ごこう)・遜堂(そんどう)という父・子・孫三人の書家の揮毫(きごう)である。
 平成20年1月 古河市教育委員会

若杉鳥子文学碑
 所在地 古河市横山町 建碑 1994年2月
松が段々まばらになった處から、亜鉛屋根の低い家並みや、製絲工場の煙突が見えて来て、何處にもよくありさうな田舎街の外郭が現れて来た。 帰郷より 

古河藩野渡御蔵跡
 思川(おもいが)・巴波川(うずまがわ)流域で、古河藩に属した村々(現野木町野渡および小山市西部)は中郷と呼ばれ、その村々からの年貢米を収納した蔵を御蔵(おくら)といった。古河町からの地続きの野渡村に置かれていたので、野渡御蔵という。
 野渡御蔵の置かれていたのは、古河市雀神社の北側の地域で古河城の北東に位置し、明治期の河川改修以前は渡良瀬川と思川・巴波川の合流地点に近かった。
 御蔵が最初に築造された時期は不明であるが、寛文4〜5年(1664〜65)に領内の検地が実施され、年貢米の管理が強化されるから、17世紀の終わりごろまでには蔵がおかれていたらしい。
 巴波川の上流にある下初田村では、延宝4年(1676)の年貢納入にたいして出された名主あての請け取り手形には「古河新蔵 重右衛門」という者がみえる。また同じ上流の下国府塚村の元禄11年(1698)の年貢納め帳には、米219俵が「大蔵納」めとなっていて、下役人が請け取り手形を4枚受け取ったと記されている。これらの「新蔵」「大蔵」は、はっきりしないが野渡御蔵を指すようである。
 蔵数とその規模・敷地等も時期によって一定せず、はっきりしない。宝暦9年(1759)8月の中郷の米納高(こめおさめだか)は10,462俵・大豆472俵余りであったから、これを収納する蔵は10棟前後を必要とすることになる。なお、古河藩の蔵は古河市中田と立アにもあった。
 享保3年(1718)からは、藩の蔵役人の下で年貢米の収納管理にあたった下役人をそれまでの村から出された村が抱えから藩抱えに変更して年貢米の管理に当たらせた。
 宝暦9年には、蔵米の管理に当たっていた下役人の年貢計量の不正指摘と年貢の減免を要求した中郷一揆が起こっている。
 明和5年(1768)10月、巴波川上流の古河藩領下河原田村(しもかわらだむら)ほか3ヵ村が、年貢米やその他の荷物を新波河岸(にっぱかし)で小上げしないで、直接野渡まで運搬しているので、船荷が減少して経営が成り立たないと新波河岸問屋が訴えている。思川・巴波川流域の村々の多くが古河藩に属し、ネングマイ野渡御蔵へ運搬されていたことを示すものである。
 文化期(1804〜17)の宿駅のようすを表した「日光道中分間延絵図」では、「領主蔵屋敷」とあり、10数棟の建物が描かれている。 (『日光道中分間延絵図』東京国立博物館蔵)参照
 平成3年3月25日 野木町教育委員会

町指定文化財
 満福寺の板碑
 指定年月日 昭和49年3月28日 指定地 野木町大字野渡706番地
板碑は死者の追善供養のために建てられたものです。
この板碑は、鎌倉時代の中期、正元元年(1259)につくられたもので下野の国では最古の部に属しています。石材は縁泥片岩(秩父青石)で、高さは基根部から約170cm幅は約40cmあります。
 昭和58年2月 野木町教育委員会 

町指定文化財
 猪苗代兼載の墓
 指定年月日 昭和56年3月16日 所在地 野木町大字野渡706番地
 この地は室町時代の連歌師として日本文学史上不朽(ふきゅう)の名を残した猪苗代兼載の墓所といわれる。
 猪苗代兼載(1452〜1510)は、室町時代中期の連歌師で心敬に連歌を学び宗祇の同門ともいう。
 後土御門天皇の命令で詩歌の選者となったり、足利八代将軍義政の連歌の師匠にもなる。
 晩年古河公方足利成氏に招かれ古河の地に来遊し病没したという。 昭和56年3月 野木町教育委員会

八幡神社
鷹見泉石
長谷観音
古河城出城
歴史博物館
古河城御成門
古河城家老屋敷
獅子崎
古河宿土塁
古河城船戸門
観音寺郭
河口信任
古河城百間堀
了正寺
古河宿本陣
古河宿高札場
古河宿問屋場
古河宿脇本陣
道標
正定寺
黒門
永井寺
雀神社
万葉の歌碑
田中正造
徳星寺
本成寺
古河宿松原出口
枡形
正麟寺
古河市
野木町

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