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【歩く地図でたどる日光街道】杉並木街道

地図でたどる日光街道TOP > 地図検索 > 24.杉戸警察〜杉戸宿説明

仲間と出会う、感動と出会うクラブツーリズムの旅/東京23区発バスツアー
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日本橋〜日光東照宮までの街道沿いに紹介したい宿泊施設や食事店がありましたらご連絡下さい。
第四次春日部宿〜第五次杉戸宿  21.春日部〜小渕  22.小渕〜香取神社  23.香取神社〜杉戸警察  24.杉戸警察〜杉戸宿  ⇒杉戸宿〜幸手宿へ

杉戸警察から杉戸宿まで
「堤根」のY字路を左、堤根杉戸線(国道373号線)に入り清地3丁目を歩いていると、左手に「ヤンマー武井農機」右手前の瓦屋根の平屋の民家の垣根を四角に切り取ったところに「三本木一里塚」の案内板がある。信号を過ぎると右に杉戸町役場があり、杉戸の資料、パンフレットがあるので立ち寄るといい。「清地2丁目」交叉点を過ぎ、右に関口酒造があり、左に行くと大落古利根川が流れている。県道154号線清地1丁目に入り、右に第一生命があり、そこから左の道に入っていくと東福寺がある。右に埼玉りそな銀行があり、その先に神明神社がある。このあたりからが杉戸の中心部だろう。「本陣跡地前」の信号手前右に三井信託銀行があり、そこに「明治天皇御休所址」の碑がある。左に行くと東武鉄道 日光線 東武動物公園駅がある。以前は杉戸駅といっていたがへ東武鉄道が動物園をつくるとき、数百年も続いた由緒ある地名の代表である駅名を企業の利益のために代えてしまったことは嘆かわしいことである。 交差点を右に行くと4号線に出る。信号を渡った右に江戸時代から続く「とらや薬局」があるが今はその面影はない。「愛宕神社前」信号右手前に本陣跡、左に脇本陣小林家があり趣のある家が目につく。このあたりは古民家が点在している。道路の突き当たりに信号があり、セブンイレブンの所に道標がある。ここは枡形なのだろうか。宝性院、電柱に洪水の水位の表示、右に大きな古民家がある。

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粕壁宿から杉戸宿 堤根(埼玉県杉戸町)〜杉戸宿(埼玉県杉戸町) 2716m 34分

幕府が重要視した街道
日光街道と日光御成道
 江戸幕府を開いたコ川氏は、五街道をはじめとする重要な街道を整えていきました。その五街道のひとつが日光道中です。日光道中は、江戸の日本橋と日光を結ぶ道、また宇都宮から分岐する奥州道を兼ねていました。
現在、杉戸町を通っている国道4号線の旧道が日光道中の道筋です。杉戸宿は、江戸の日本橋から数えて、千住、草加、越ヶ谷、粕壁に続く日光道中五番目の宿場でした。
 日光御成道は、道筋として、かつての鎌倉街道とも重なる部分も少なくありません。日光社参の将軍が通行したことから、“御成道”といわれたようです。日本橋を起点に王子、川口、岩槻を経て、幸手で日光道中と結ばれていました。
 その日光御成道は、杉戸町内の下高野・下野地区を通っており、現在の県道岩槻幸手線がその道筋です。この御成道の一里塚が現在も下高野地区に片側だけ残されており、県の文化財に指定されています。杉戸町HPより

杉戸宿(すぎとじゅく)
 日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町の一つ。現在の埼玉県北葛飾郡杉戸町中心部に相当する。日光街道の江戸・日本橋から数えて5番目の宿場である。
 古くから利根川(現・古利根川)の渡し場があり、日本武尊が東征を行った際にこの付近に上陸し、そこが杉の木が茂る港(水門)であったことから杉門と名付けられたとする伝説がある。
 宿場自体は五街道の整備に伴い、1616年(元和2年)に近郊の郷村を集めて成立した。宿場は街道に沿って町並みを構成し、5と10のつく日には六斎市が開かれ、近郷商圏の中心地となっていた。町中は新町・下町・中町・上宿に分かれ、それぞれに名主や問屋が置かれ、本陣・脇本陣はいずれも中町に置かれていた。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、杉戸宿の距離1里21町、宿高1166.310、町並8町20間、道幅5間、人数1663人(男789人、女874人)、家数365人、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠46軒(大4・中7)、問屋場1軒、宿建人馬25人25疋であった。
 現在の町並みは、都市化の影響をさほど受けていないためか旧家も比較的良く残り、旧宿場街の面影を感じさせる。Wikipediaより

宿高(しゅくだか)とは 農作物などを米の取れ高に換算して、村や町宿場の規模を表示したものです。単位は石・斗・升・合・勺(しゃく)で、1石は10斗、、1斗は10升、1升は10合となります。1合は10勺となります。1升は約1.8?(一升瓶1本分)で、1石は一升瓶100本分の量となります。なお、1俵はおおよそ3斗5升のお米を入れました。

町(ちょう)と間(けん)とは 町と間は、長さを測るときの単位のことです。1町は約109.09mとなります。1町は60間です。1間は6尺(しゃく)で、約1.82mになります。なお、町・間・尺は時代によっても少しずつ長さが異なりました。

本陣・脇本陣・旅籠とは いずれも旅館です。本陣・脇本陣は、参勤交代の大名や勅使・公卿といった貴人が宿泊しました。本陣が利用できないときには、かわりに脇本陣が利用されました。一般旅人が宿泊する旅籠があります。旅籠は、食事つきの宿泊施設です。

問屋場(とんやば)とは 問屋(といや・とんや)ともいい、次の宿場まで乗り継ぐ人足や馬を用意したり、公用の出張者の旅館手配など、宿場業務を取り扱う施設のことをいいます。

宿建人馬(しゅくだてじんば)とは 参勤大名や役人などが通行するときに、宿場で用意する人足(にんそく)
と馬の最大数のことです。足りない分は助郷(すけごう)として、周辺の村々から調達しました。本来50人50疋を割り当てられていましたが、文化5年(1808)に35人35疋に変更されました。

三本木一里塚   TOPへ
 ここの日光街道一里塚は、江戸に向かって左側が堤根村地内、右側が清地村内で、大きさが縦・横ともに約9m、塚の上に榎が植えられていた。しかし、明治時代半ば以降には、交通の発達などによって取り払われてしまった。なお、江戸に向かって次の一里塚は、小渕村(春日部市)に、日光に向かっては、茨島村(杉戸町)にあって、いずれも榎が植えられていた。
 こうした一里塚ができるまでには、まず慶長5年(1600)徳川家康が江戸を中心に、東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道を整えた。その後、慶長9年(1604)主な街道に、道のりを表す目印として、日本橋から一里(約4km)ごとに塚を築いて旅行者の目安とした。 杉戸町教育委員会

南側用水路の由来   TOPへ
 南側用水路は、江戸時代初期の万治3年(1660)、利根川筋・本川俣村に葛西用水の取水口が作られた際に、その支流として当時の幸手領南側一帯(幸手市から杉戸町を経て春日部市まで)に農業用水を供給するために設けられました。
 杉戸町を9.5kmに渡り流れる南用水路は、大切な農業用水路としての役割を果たすとともに、清らかな水に魚が泳ぎ、沿線の人々の生活に深く係わりながら、身近な水辺として親しまれてきました。
 しかしながら、農業用水のパイプライン化により、昭和63年3月に300年あまりに渡る用水路としての役割を終えました。 南側用水路の跡地は杉戸町の貴重な都市空間であり、町民共通の財産でもあります。
 この遊歩道は、貴重な南側用水路の跡地を町民の皆さんにより親しんで頂けるように、遊歩道として整備したものです。平成6年7月

近津神社   TOPへ
祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと) 経津主命(ふつのぬしのみこと) 岐ノ命(くなとのみこと)
祭儀 大祭2月20日 中祭7月20日 新嘗祭(にいなめさい)11月25日 小祭毎月1日 15日 28日
 当社の創建年代は不詳であるが、貞享元年(1684)には本社を建立しているのでそれ以前と思われる。安政5年(1858)に社殿を再建した。
 明治6年に村社となり、大正8年指定神社となった。関東大震災により拝殿が全潰したが、昭和4年再建した。
 本殿の彫刻は近郷近在の神社に類をみないすばらしいものである。なお、境内には稲荷、天神、金山、厳島、浅間、雷電、三峯の諸社が祀られている。 杉戸町教育委員会

東福寺

名主問屋 渡辺家跡

杉戸宿問屋場跡

釘屋嘉右衛門宅跡

明治天皇御休所址
明治9年(1876)6月3日、明治天皇奥州御巡幸の途中、杉戸に立ち寄り、ここで5分間の休憩をとられました。
この御小休止を記念して昭和11年に建てられたのが、明治天皇御小休止阯です。碑には、「明治天皇明治9年奥州御巡幸ノ際6月3日此ノ地ニ御辰憩シ給ハル乃チ碑ヲ樹テテ之ヲ不朽ニ伝ヘントス」と刻まれています。また、この題字は、西郷隆盛の甥にあたる西郷従徳の手によってかかれたものです。 杉戸町HPより

とらや薬局
名主問屋鈴木家跡
東側脇本陣
西側脇本陣
名主問屋大塚屋跡
本陣長瀬家
杉戸宿高札場
名主問屋堀江家跡
稲荷神社
芭蕉の句碑
御成道への道標
杉戸学校跡
宝性院
渡辺家
元名主海老原家跡

関口酒造
問屋場
明治天皇御休所
東福寺
宝性院
御成道
松尾芭蕉句碑
杉戸宿高札場
堤根
清地
杉戸
東武動物公園
杉戸町
スカイツリーライン

杉戸宿本陣・杉戸宿脇本陣
本陣とは、江戸時代、大名や幕府の役人が街道を通行する際に使用した専門の宿泊施設です。
杉戸宿では長瀬家がその任にあたり、建坪およそ166坪半であったと『宿村大概帳』にはあります。同家には、往時を偲ばせる門がまえが現在も残っています。

松尾芭蕉の句碑  所在地 杉戸町杉戸四丁目
 ここ浅間神社の岩山の一角に、次の芭蕉の句が、自然石に刻まれている。 
 八九間 空で雨ふる 柳哉(かな) はせ越(を)
 この句は、続猿蓑集巻の上に載っている連句の発句であるが、数多い芭蕉の句のうち、なぜこの句が選ばれたのかわかっていない。この自然石は、昭和三十三年に古利根川の改修工事を行うため、この浅間山を移築したときに見つかったものである。
 はせ越(を)は、松尾芭蕉で、元禄二年(一六八九)三月二十七日に「奥の細道」の旅立ちをして、翌二十八日には杉戸宿を経て間々田宿に泊まっている。江戸時代末期には地方でも俳句がさかんになり各地に発句の会などができ、俳句作りは農村の娯楽の一つとなり、清地の近津神社の境内には、嘉永六年(一八五三)に建立された当町の俳人の名が刻まれた碑がある。
 また、浅間神社では、毎年七月一日にこどもの健やかな成長を祈る行事として、初山が催されている。
 昭和六十二年三月 埼玉県 杉戸町

宝性院

カスリーン台風
1947年9月に発生し、関東地方や東北地方に大きな災害をもたらした台風のこと。台風本体の勢力の割には降水量が多い雨台風の典型例とされている。 ウィキペディアより
報奨院の近くには、カスリーン台風の水位を電柱に表示してある。

杉戸学校跡   TOPへ
 明治5年(1873)8月、太政官より近代的教育法規である「学制」が出されると、同7年4月、ここ宝性院にも杉戸宿・清地村・倉松村の児童を教育するために杉戸学校が設立された。児童数は、男117人、女35人、教員は5人であった。(同9年調べ)
 同10年3月には、杉戸下町(現在の杉戸1丁目付近)の鈴木彰氏宅内に校舎を新築し鶏鳴(けいめい)学校と改称した。しかし、同13年3月清地村が組合から分離したために、杉戸宿と倉松村は鶏鳴学校を閉鎖し、再び宝性院を仮校舎として杉戸学校を開校した。やがて児童数の増加にともなって、施設・設備が不足し同34年11月、内田地内に校舎を新築し移転した。このように、初期の初等教育においては、寺院を借用するものが多かった。
 杉戸町教育委員会

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制作・著作:風になりたや(浜田輝雅)
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