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【歩く地図でたどる日光街道】越谷鍛冶忠家 【歩く地図でたどる日光街道】タイトル 日光街道TOP
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地図でたどる日光街道TOP > 地図検索 > 21.春日部〜小渕説明
仲間と出会う、感動と出会うクラブツーリズムの旅/東京23区発バスツアー

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日本橋から日光東照宮までの街道沿いで紹介したい宿泊施設や食事店がありましたらご連絡下さい。

第四次春日部宿〜第五次杉戸宿  21.春日部〜小渕  22.小渕〜香取神社  23.香取神社〜杉戸警察  24.杉戸警察〜杉戸宿

春日部から小渕まで
八坂神社を過ぎ、鳥居の奥の長い参道は「下の八幡様の参道」で奥に東八幡神社がある。「一宮」交叉点はY字路になっていて、右は4号線、左が日光街道(かすかべ大通り)で、Y字路を渡ったところに、松尾芭蕉が宿泊したといわれている東陽寺がある。「文化会館前」の信号、左に行くと東武鉄道の線路の高架を越えて春日部駅西口へ、右に行くと春日部市立文化会館がある。コンサートなどが行われる。右にロビンソン百貨店を過ぎ、信号を右に曲がり直進すると大落古利根川に突き当たる。ここに船着場があった。左に行くと碇神社がある。ロビンソンの信号まで戻り、さらに進むといかにも古い建物がある。これが田村本家で家の前に問屋場の道標がある。「粕壁東3丁目」の信号を過ぎ、大きな交差点に出る。右に田村荒物店があり、ここも古い建物だ。左に行くと東武線春日部駅、右に行くと「古利根川公園橋」を渡り4号線に行ける。「新町橋西」信号を過ぎ、永嶋庄兵衛商店、山田商店などの古民家がある。道の突き当たりに最勝院がある。春日部重行の墓がある。左に行くと岩槻道と呼ばれる狭い道で成就院、妙楽院を通って、稲荷神社、八幡神社へ行ける。「新町橋西」信号から新町橋で大落古利根川を渡り、一つ目の信号を左に行く。右にカーブし、一つ目の信号の先にの交叉点に小渕の一里塚がある。さらに行くと二またに分かれている所に追分がある。
【歩く地図でたどる日光街道】粕壁宿から杉戸宿 八坂神社〜小渕

初めて歩く人のために - 【 歩く地図でたどる日光街道 】説明   TOPへ
粕壁宿から杉戸宿 八坂神社(埼玉県春日部市)〜粕壁宿〜小渕(埼玉県春日部市) 2015m 25分

粕壁宿(かすかべじゅく)
 江戸時代に整備され、栄えた宿場町の一つで、日光街道の江戸・日本橋から数えて4番目の宿場である。現在の春日部駅東口の旧街道一帯が、かつての粕壁宿である。 宿駅として成立したのは元和二年(1616)。古利根川を通じて、江戸と結んだ物資の集散地として栄えた。尚、江戸・日本橋から一日歩き通すと、ちょうど1泊目となる宿場町がこの粕壁であったことから、旅人の多くはここで宿を取ったようである。
天保14年(1843)『日光道中宿村大概帳』によれば、粕壁宿の距離2里30町、宿高1696.931、町並10町25間、人数3,701人(男1,791人、女1,910人)、家数773軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒、問屋場1ヶ所、宿建人馬35人35疋。規模は23宿のうちの6番目であった。 街道沿いには青物店、穀物店、精米・精麦店、飲食店などが建ち並び、4と9のつく日には六斎市が開かれ、地域経済の中心地となって発展した。 近年の急速な都市化でかつての宿場町としての面影は薄くなっているが、当時からの商家もいくつか残っている。Wikipediaより

宿高(しゅくだか)とは 農作物などを米の取れ高に換算して、村や町宿場の規模を表示したものです。単位は石・斗・升・合・勺(しゃく)で、1石は10斗、、1斗は10升、1升は10合となります。1合は10勺となります。1升は約1.8?(一升瓶1本分)で、1石は一升瓶100本分の量となります。なお、1俵はおおよそ3斗5升のお米を入れました。

町(ちょう)と間(けん)とは 町と間は、長さを測るときの単位のことです。1町は約109.09mとなります。1町は60間です。1間は6尺(しゃく)で、約1.82mになります。なお、町・間・尺は時代によっても少しずつ長さが異なりました。

本陣・脇本陣・旅籠とは いずれも旅館です。本陣・脇本陣は、参勤交代の大名や勅使・公卿といった貴人が宿泊しました。本陣が利用できないときには、かわりに脇本陣が利用されました。一般旅人が宿泊する旅籠があります。旅籠は、食事つきの宿泊施設です。

問屋場(とんやば)とは 問屋(といや・とんや)ともいい、次の宿場まで乗り継ぐ人足や馬を用意したり、公用の出張者の旅館手配など、宿場業務を取り扱う施設のことをいいます。

宿建人馬(しゅくだてじんば)とは 参勤大名や役人などが通行するときに、宿場で用意する人足(にんそく)
と馬の最大数のことです。足りない分は助郷(すけごう)として、周辺の村々から調達しました。本来50人50疋を割り当てられていましたが、文化5年(1808)に35人35疋に変更されました。

地名の由来
 「かすかべ」の表記は何度か変更されている。南北朝時代(14世紀)、新田義貞の家臣春日部氏が当地を領地としたことから「春日部」の地名が生まれたとされるが、その後江戸時代正保年間(1645年頃)には糟壁、糟ヶ辺という表記が交互で使われており元禄年間(1700年頃)に粕壁、糟壁と記す漢字表記が明治初期あたりまで交互に使われていた。高橋至時・伊能忠敬らによる大日本沿海輿地全図では粕壁と記されている。明治期に大区小区制を施行してから粕壁という漢字表記に統一した思われる。東武鉄道の春日部駅も開業時から1949年まで粕壁駅という漢字表記で使われていた。1944年に南埼玉郡粕壁町と同郡内牧村が合併した際に南埼玉郡春日部町とし、表記を改めた。
 春日部駅は「春日部市粕壁1丁目」にある。なお、「春日部市春日部」と漢字表記する地名は存在しない。公共施設の表記は「粕壁」となっている。粕壁といわれた地域は現在の一ノ割の一部から中央1 - 8丁目、南1 - 3丁目の一部、粕壁1 - 4丁目、粕壁東1 - 6丁目、緑町6丁目、緑町2丁目。南埼玉郡粕壁町の時代(1944年以前)は上記に掲げた地域が粕壁町の区域。上記の字名は新宿、八木崎、内出、内谷、金山、草刈場、土井、川久保、川久保新田、町裏、町並、井戸棚居、立沼、馬草場 、浜川戸。南埼玉郡内牧村との合併で春日部町内の地名は字名として残った。現在は一部が八木崎町・浜川戸等に残っている。Wikipediaより
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「粕壁宿と日光道中U」春日部市郷土資料館夏期展示
 春日部市は、東武鉄道スカイツリーラインと野田線、国道16号線と国道4号線というように、主要な鉄道や道路が交差する交通の要衝の地です。市の中心部を形成する粕壁地区では、伝統的な商業が盛んで、今日でも土蔵造りの店や蔵を持つ商家が点在しております。
 このような春日部市の姿は、江戸時代に五街道の一つ日光道中が通り、宿場町が成立したことにはじまります。現在の春日部駅東口方面の市街地は、江戸時代には粕壁宿があったところで、通りに沿って家々が軒を連ね、地域交通、流通の拠点として栄えておりました。
 宿場町は、もともとは幕府御用の交通・通信のために設けられたまちです。馬継場ともいい、幕府の役人などが公務出張したときには、問屋場で宿場の役人たちが滞りなく人足と馬を揃えて、隣宿まで提供しました。また、本陣や脇本陣は、出張の役人のほか、大名や貴族、日光門主などが休息、宿泊しました。このほか、例えば栗橋の関所から江戸にいる上司へ連絡を取る場合など、公的な手紙や文書を継送るという、郵便局のような役割もありました。…以下省略。春日部市教育委員会 教育長植竹英生

日光道中
 日光道中は、江戸幕府によって定められた五街道の一つです。江戸から日光鉢石まで21の宿場があり(数え方により23宿)、長さ38里余(約150q)、徒歩で3泊4日ほどの行程でした。宇都宮までは東北地方へと続く奥州道中との併用で、途中関所の置かれた栗橋(現久喜市栗橋町)で利根川を渡りました。
 日光道中・奥州道中は、東北地方の参勤大名をはじめ、日光山の参詣者、日光山関係の長官や役人、各地の商人や松尾芭蕉などの文化人など、さまざまな人々が往来した。
 日光道中の成立は徳川家康と日光東照宮に深い関係があります。天正18年(1590)に徳川家康が江戸を本拠として関東地方を治めると、江戸を中心とした交通網が整備されました。元和2年(1616)、初代将軍であった徳川家康が死去すると、家康は神格化され、翌3年には日光東照社(のちの東照宮)が成立しました。奥州道中は江戸幕府にとって重要な聖地へ至る道となり、日光の名を冠とする街道が成立することになります。
 なお、戦国時代までは、奥州の道筋は日光道中より西側岩槻城(岩村・現さいたま市岩槻区)を通るルートでした。この道は、江戸時代には将軍の日光参詣路である日光御成道となります。

粕壁宿のすがた
 宿場のことを宿駅(しゅくえき)ともいうように、宿泊と駅の機能をあわせもったのが宿場町です。江戸幕府は街道を整備するにあたり、大名や役人など武家が公用で出張するときに宿泊できる施設(本陣と脇本陣)があり、隣宿まで人足と馬を提供する役目(伝馬役=でんまやくと歩行役=かちやく)を負う宿場を、数里おきに設定しました。さらに、公用文書の郵送も大切な役目でした。
 人足と馬の負担は宿場にとって大きかったため、江戸時代前期には屋敷地の年貢が免除されるようになります。粕壁宿では、人足50人と馬50疋の負担が義務づけられていたかわりに、免税措置として1万坪の地子免許(じしめんきょ)を受けていました。なお、50人50疋の負担は重いとして、のちに35人35疋に軽減されています。
 宿場には名主(なぬし)、年寄(としより)、百姓代(ひゃくしょうだい)の村方三役(むらかたさんやく)に加え、人馬を差配(さはい)する問屋役(といややく)が置かれ、宿駅の行政を行う宿駅人を構成していました。門や玄関があり身分の高いものが休泊できる本陣、脇本陣と、命じられた人足と馬を用意したり、御用状(ごようじょう)など公的な文書を郵送する問屋場(といやば・とんやば)はも宿場町特有のものです。問屋場には、問屋や帳付(ちょうづけ)、馬差(うまさし)などの宿駅業務を行う役人たちが詰めて仕事をしていました。
 粕壁宿の街並みは、幅5間程(約9m)の道に沿って計画的に区画割りがなされ、宿内は日光方面から道に沿って上町(かみまち)、仲町(なかまち)、新宿(しんじゅく)、三枚橋(さんまいばし)という町組に分かれており、さらに周囲に横町、裏町、新町(八丁目村)が発達していきました。このほか寺町、内出、陣屋など宿場成立当初からあったと思われる町組もありました。

粕壁宿の成立
 戦国時代まで、春日部(粕壁)は、春日部八幡神社付近と元新宿八幡神社付近が中心であったと考えられます。江戸幕府が成立し、奥州道と宿役の整備がはじまり、現在の春日部駅東口方面に、往還に沿った宿場町が成立しました。春日部宿の町割りは、江戸時代後期の名主の記録『公用鑑(こうようかがみ)』によると、慶長16年(1611)に幕府の代官頭(だいかんがしら のちの関東郡代)伊奈忠治によって行われたとあります。当初粕壁宿には名主が5名いましたが、彼らは最初の町割りのときに移住し、町場の造成と住民の募集に活躍したのでしょう。
 粕壁宿にある東八幡神社は、元新宿にいた士豪関根氏が新宿に移住したことに伴ない、元新宿の八幡神社を勧請したと伝えられています。江戸時代初期に粕壁宿の街並み形成にあたり、付近の住民が移住してきたことがうかがえます。

粕壁宿の人々
 普通の農村と異なり、宿場町にはさまざまな職業の人々がいました。粕壁宿でも、本陣、脇本陣、旅籠といった宿泊業を営むものがあり、商店や飲食店があってにぎわいました。いわゆる飯盛女を雇って客引きをするお店もありました。また、鍛冶屋や大工などの職人たちもおり、指物師は当地特産の桐職人だったと思われます。
 町場に暮らす人々は、道沿いの間口を基準に伝馬役を負担する本百姓のほか、地借(じがり)、店借(たながり)などの借地人、借家人でした。嘉永2年(1849)の宗門人別帳によると、粕壁宿の人口は3,779人、家が817戸あり、平均家族は4.63人でした。家族のほかに、使用人、奉公人を雇っている家もあり、その人数は149人にのぼります。

粕壁宿と周囲の農村
助郷
助郷とは、宿場町で用意しきれない人馬を、周囲の村々が助けて人と馬を提供する制度のこと。宿場ごとに指定された定助郷(じょうすけごう)と、定助郷で賄いきれない場合の加助郷(かすけごう)、当分助郷(とうぶんすけごう)増助郷(ましすけごう)などがあった。粕壁宿では定助郷29か村が割り当てられていた。江戸後期には、お金を出すだけの雇替(やといがえ)も行われた。
立場と一里塚
宿場間の休息所として認められていた場所が立場(たてば)。粕壁〜越ヶ谷間には間久里村に立場があったが、距離が長かったため備後村にも立場が設けられ、茶屋が営まれた。一里塚は道中距離の目印。市域では備後村と小渕村にあり、道の両脇の塚上に榎が植えられていた。(以上「粕壁宿と日光道中U」春日部市郷土資料館夏期展示より)
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粕壁宿の火災と水害
 古利根川に沿った粕壁宿では、何度も大水の被害にあっています。家々が建ち並ぶ町場は微高地であったため、直接の被害は受けませんでしたが、水田は被害を受け、江戸後期の名主見川喜蔵により喜蔵堤が築かれました。
 一方火災は、家が密集している町場では被害が大きくなる傾向がありました。今日まで語り継がれている大火では、民家350軒と土蔵60軒が類焼した天保6年(1835)3月の島村火事があります。このため火の用心や火の番は特に注意されており、町組ごとに火消し組がありました。

八坂神社    TOPへ
 近世牛頭天王社(こずてんのうしゃ)。市神様(いちがみさま)。夏祭りは同社祭礼が起源。鉄製の火の見櫓があり、その土地の鍛冶屋が腕によりをかけて造るその土地独特のもので、ここの火の見櫓の屋根は八角形をしている。

東八幡神社   TOPへ
 下の八幡様・大砂(大門と砂塚)の八幡様。付近は砂塚とも呼ばれた。文化4年(1807)年生まれの力持ち三ノ宮卯之助が持ち上げたという100貫目(約375kg)の力石を天保3年奉納した。

東陽寺   TOPへ
 曹洞宗。元禄2年「奥の細道」の旅で、粕壁に宿泊したという松尾芭蕉の記念碑があり、曽良の随行日記の一説を刻む。 以上いずれも粕壁郷土博物館 「粕壁歴史探訪マップ」より

松尾芭蕉   TOPへ
 俳諧の文学性を高め、蕉風俳諧を確立した江戸時代前期の俳人、松尾芭蕉は、晩年の「おくの細道」紀行の旅程で粕壁宿を通っています。「おくの細道」は、奥州の歌枕の地を訪ねる旅で、日光道中・奥州道中を通りました。江戸深川の芭蕉庵を出発した松尾芭蕉は元禄2年(1689)3月27日夜「カスカベ泊」りました。(曽良「随行日記」)。粕壁での宿泊先については定かではありませんか、名主宅や寺院に宿泊したのではないかといわれています。 春日部氏郷土資料館 「俳諧」チラシより

春日部宿脇本陣跡 幕末(嘉永2年〜)には本陣も勤める。   TOPへ

春日部宿本陣跡
 幕末の小沢本陣。見川本陣の後を勤めた(文化6年〜嘉永2年)

関根名主跡
 近世中期までの名主家の一つ。近世では関根姓を名乗る。

碇神社
 関根名主家敷地内にあった稲荷社。付近に下喜蔵河岸があった。草地の中に小さな祠がある。鎌倉・室町時代には古利根川を上下する船の発着場だったので碇山といわれた。1243年稲荷を祀り碇神社としたそうだ。
 社前の犬樟は樹齢六百年で県の天然記念物。昔は江戸を結ぶ大動脈だった水運がすたれたため、神社まですたれてしまった。

碇神社のイヌグス
碇神社には推定樹齢600年を超えるイヌグスがあります。本来南方系の樹木であり、その生育の北限とされるため、県内でも珍しく県の天然記念物に指定されています。江戸時代、粕壁宿には新町橋付近の上喜蔵河岸(かみきぞうがし)
と碇神社付近の下喜蔵河岸(しもきぞうがし)があり、イヌグスの巨木は古利根川を通る船にとって河岸を探す格好の目印となっていました。(春日部市教育委員会 春日部市文化財マップより)

春日部宿本陣跡
 近世中期の本陣(?〜宝暦4年)関根助右衛門家。

田村本店
 蔵造りの店の商家。歩道に天保4年の道標が立つ「北日光」「東南江戸」「西南いハつき」(現位置ではない)

春日部の案内板
 田村荒物店の信号を渡ったところにある。1616年に千住宿から数えて4番目の宿場に定められた。

山田商店 享保(1716〜36)頃から営業を続けている老舗。今の建物は幕末の建築で黒と赤を基調とする歴史のある立派な建物。

多田名主跡
 近世後期名主の一人。時期不詳だが一時期本陣を勤めたとも。

問屋場跡
 宿場の業務を行うところ。問屋場道標があります。

見川名主跡
 近世後期名主の一人。関根助右衛門のあと本陣も一時勤める。(宝暦4年〜文化6年)

春日部宿高札場跡
 幕府のお触れを掲げる。今は交差点だが、江戸時代には三差路だった。

上喜蔵河岸跡
(かみきぞうかしあと) 埋め立てられたが、わずかに石積みが残る。

新町橋
 近世には「大橋」と呼ばれた。板橋がかかっていた。

最勝院
真言宗。大きなシイの木のある塚に伝春日部重行公墳がある。新田義貞に属し、1338年に足利尊氏氏と戦って敗れた。南朝の忠臣として大正時代になって従4位を授与されている。徳川家光の遺骸を一時安置。明治26〜30年千住馬車鉄道の終点。門には丸を二つ重ねた春日部家の紋がある。この紋は春日部市の市章になっている。

山中観音堂跡
 近世後期の俳諧師増田民牛ゆかりのお堂。
我孫子医院 旧粕壁医院。近代の俳人水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)・加藤楸邨(かとうしゅうそん)ゆかりの医院。 以上いずれも粕壁郷土博物館 「粕壁歴史探訪マップ」より

永嶋庄兵衛商店 創業慶長年間。屋根に鍾馗様がある。   TOPへ

八丁目八坂香取稲荷合社   TOPへ
八坂・香取・稲荷様の合祀社です。社殿脇の上輿蔵には、千貫神輿(せんがんみこし)と呼ばれる神輿が保管され、元旦には歳旦祭として神輿の渡御が行われています。東隣には真言宗寺院である仲蔵院があります。
 春日部市氏が元弘年間(1331〜1334)に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請下もので、春日部市氏の領土新方(にいがた)領の創鎮守だった。奥の院は、春日部市最古の建築だったが、平成7年の火災により焼失、復元された。流れ作りという様式で、社殿の屋根が長くなっている。

小渕の一里塚 天保3年(1832)建立の庚申塔がある。   TOPへ

関宿道追分   TOPへ
 関宿は久世氏の城下町。道標は、大小二つあり、大きい方は宝暦4年(1754)の建立。正面に「青面金剛」、横に「左日光道」とある。小さい方は宝永6年(1709)の建立で、正面に「左方あふしう道」とあり、右横は一部欠けているが「右方せきやど道」とあったのだろう。

力石(ちからいし)について」   TOPへ
この石は、昔自慢の人達がその腕力を競った時に使用したものと言われています。
小さなものが17貫目(63.75kg)大きなものが33貫目(123.75kg)ほどあります。

春日部市郷土資料館 江戸時代の粕壁宿の推定模型
春日部は中世に「春日部氏」を名乗って当地に住みついた武士団が台頭。鎌倉時代末から南北朝時代にかけて、春日部重行が後醍醐天皇に従い功を立てました。浜川戸の八幡神社は、春日部氏が元弘年間(1331〜1334)に築いたといわれ、周辺には館が築かれていました。館跡からは、磁器や陶器などが見つかり、繁栄を誇っていたようです。江戸時代には日光街道第四の宿場として栄え、『粕壁』という字が使われます。江戸を結ぶ舟運として古利根川が重要な役割を果たし、米麦の集散地として賑わいを見せていました。(春日部氏観光協会 市内見て歩きルートより)

薬草園
船着場
名主
問屋場
田村荒物店
永嶋庄兵衛商店

高札場

春日部八幡神社
元弘元年(1331)頃に春日部時賢が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したものと伝えられており、春日部氏の領地であった新方領の総鎮守となっています。境内や公園は春日部氏の館跡と推定される浜川戸遺跡にあたり、中世の青磁、白磁などの舶来品が出戸しています。また、参道入口には、在原業平の故事にちなむ「都鳥の碑」が建っています。(春日部市教育委員会 春日部市文化財マップより)

浜川戸富士塚
藤塚は、富士講という富士山を信仰の対象とする団体によって富士山を模して築かれた塚のことです。富士講は江戸時代に大流行し、各地区で藤塚が盛んに築かれました。八幡公園にある富士塚は高さ8mを測り、宝珠花神社の藤塚と並ぶ市内最大規模のものです。7月1日の富士山の山開きに合わせて、子供の無事生育、加火防等を祈る初山行事が行われています。(春日部市教育委員会 春日部市文化財マップより)

追分
関宿道
ほう珠花道
粕壁
小渕
春日部市
香取神社

最勝院と寺町
最勝院は真言宗智山派の寺院で華林山慈恩寺と号します。広い境内では明治時代には小学校が開設され、大相撲の巡業やサーカスなどの興行も行われました。また、春日部重行の墓と伝えられている塚もあります。付近には玉蔵院妙楽院、成就院、普門院が立ち並び寺町を形成しています。この寺町は粕壁宿の西方奥地にあたり、宿場を守る位置にあります。(春日部市教育委員会 春日部市文化財マップより)

十文橋
明治23年、梅田村に移住すると個人が橋をかけることを県知事あてに願いでました。翌年に橋がかけられ、渡り賃が十文であったため「十文橋」の呼び名で親しまれました。その後、橋は架け替えられましたが、その名称は現在までそのまま残っています。(春日部市教育委員会 春日部市文化財マップより)

スカイツリーライン

【お食事処】

【ご宿泊】

【市内散策】
■東口コース(歩程2.q 約40分)
東武鉄道スカイツリーライン春日部東駅前ロータリーブロンズ像〜粕壁宿の由来碑(旧日光街道)〜全国でも珍しい公園橋〜田村邸の蔵(旧日光街道)〜東口商店街通りの道しるべ(旧日光街道)〜東屋の蔵()旧日光街道
〜図書館・市民文化会館そばのモニュメント〜郷土資料館〜ブロンズ通り〜春日部駅

■西口コース(歩程3q 約50分)
春日部西口駅前ロータリーのモニュメント〜中央第四公園〜西口駅前大通〜藤通り〜中央第一公園〜市役所通りと会ノ堀川〜雷電神社〜トキタ園芸の花畑〜春日部市が築いた八幡神社〜東武鉄道野田線八木崎駅

■牛島・花めぐりコース(歩程4q 40分)
東武鉄道野田線牛島駅〜春の堤花の花盛りから牛島小学校のポプラ並木〜国の特別天然記念物牛島の藤〜牛島球場 市木の桐〜牛島女体神社〜児童館エンゼルドーム〜春はひなげし広場、夏はひまわり迷路〜古利根川に架かる人道橋〜牛島古川公園〜牛島駅

【文化財めぐりルート】
■内牧地区
東武鉄道野田線八木崎駅〜I〜古隅田川縁道〜I〜塚内4号墳〜D〜内牧塚内古墳群〜D〜楽応寺(恵比須講)〜D〜坊荒句遺跡群(内牧公園)〜I〜香林寺〜I〜鷲香取神社〜S〜梅田寺・神明社〜I〜東武スカイツリーライン北春日部駅

■幸松地区
東武スカイツリーライン北春日部駅〜S〜浄春院(小渕河畔砂丘)〜N〜小渕山観音院〜I〜小渕一里塚〜I〜八丁目八坂香取稲荷合社〜D〜東福寺〜I〜めがね橋(旧倉松公園)〜S〜樋掘大師〜I〜牛島のフジ(藤花園)〜I〜東武鉄道野田線藤の牛島駅

■豊春地区
東武鉄道野田線豊春駅〜N〜東光院〜N〜花積貝塚〜?〜やじま橋(古隅田公園)〜B〜新方袋・南中曽根香取神社(オビシャ)〜I〜満蔵寺のお葉附イチョウ〜S〜業平橋〜I〜豊春駅

■春日部地区
東武鉄道野田線八木崎駅〜D〜春日部八幡神社〜A〜浜川戸藤塚〜I〜最勝院(寺町)〜@〜十文橋〜I〜碇神社のイヌグス〜I〜春日部市立郷土資料館〜N〜三郎谷稲荷神社〜N〜秋葉神社の夫婦松〜@〜春日部駅

■武里地区
東武鉄道スカイツリーライン一ノ割駅〜D圓福寺(曼荼羅堂)〜I〜備後の丸彫庚申塔〜@〜真福寺〜S〜備後須賀稲荷神社〜D〜勝林次〜N〜大場香取神社〜I〜頌徳碑(光明寺)〜S〜大畑香取神社(やったり踊り)〜D〜西光寺〜D〜東武鉄道スカイツリーライン武里駅

■豊野地区
東武鉄道スカイツリーライン一ノ割駅〜I〜藤塚橋〜D〜藤塚香取神社〜S〜銚子口香取神社(銚子口の獅子舞)〜N〜?墓〜?〜赤沼神社(赤沼の獅子舞)〜D〜常楽寺〜B〜赤沼バス停〜バス15分で東武鉄道せんげん台駅へ または県道野田岩槻線を徒歩で60分

■宝珠花地区
朝日バス春日部駅東口〜関宿中央ターミナル線宝珠花入口バス停〜I〜小流寺〜I〜宝珠花神社〜B〜大凧会館〜I〜不動堂〜I〜神明貝塚〜S〜大凧会館入口バス停(または杉戸町木野川バス停より東武動物公園駅へ

■富田・倉常・芦橋・木崎地区
朝日バス停春日部東口〜関宿ターミナル線石神バス停〜中庄内耕地整理碑〜S〜立野天満宮・延命院〜?〜榎集会場(榎の囃子神楽)〜S〜須釜遺跡〜S〜倉常神社(倉常の神楽囃子)〜80分〜神間バス停(至春日部東口)

■南桜井・川辺地区
東武鉄道野田線南桜井駅〜I〜花蔵院〜I〜西金野井香取神社(西金野井の獅子舞)〜?〜蓮花院〜I〜川辺村及び南櫻井村聯合耕地整理記念碑〜I〜飯沼香取神社〜I〜権現山遺跡〜D〜東中野香取神社(東中野の獅子舞)〜?〜東武鉄道野田線南桜井駅

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制作・著作:風になりたや(浜田輝雅)
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