二宮金次郎 | 栃木Information | 志賀高原を歩く | 磐梯・安達太良山を歩く  |  メール  | 相互リンク 
【歩く地図でたどる日光街道】越谷鍛冶忠家 【歩く地図でたどる日光街道】タイトル 日光街道TOP
地図INDEX
初めて歩く人のために
街道用語 
旅行用心集
東照宮から奥日光へ   
【歩く地図でたどる日光街道】杉並木街道

地図でたどる日光街道TOP > 地図検索 > 15.越谷宿〜北越谷 (説明

好評!関東出発 歴史街道歩き旅(日光街道・奥州街道・東海道・中山道・甲州街道)募集中!
地図(A3サイズ)を印刷するには地図をクリックするか k-15.pdf をクリックしてください。
日本橋から日光東照宮までの街道沿いで紹介したい宿泊施設や食事店がありましたらご連絡下さい。

第三次越谷宿〜第四次春日部宿  15.越谷宿〜北越谷  16.北越谷〜大林  17.大林〜千間台  18.千間台〜武里  19.武里〜藤塚橋  20.藤塚橋〜八坂神社

越谷宿から北越谷まで
「越谷2丁目」交叉点で鳩ヶ谷道と交わる。左側に岡本旅館があり、265mほど行くと信号で、さらに76m行くまた信号がある。古い民家が残っている。約320mほど行くと越谷本町の信号があり、その先が元荒川になっている。左に行くと岩槻方面。ここを右に180mほど行くと旧4号線の信号がある。その信号を横切り川沿いに突き進むと約200mほどで越谷御殿がありこのあたりの町名を御殿町という。75mほど行くと左側に板碑がある。さらに165mほど行くと左に久伊豆参拝専用歩道橋、宮前橋があり、元荒川を渡橋する。橋を渡り終えると、すぐ左に天嶽寺の庚申塚がある。庚申塔や道祖神がたくさん並んでい。天嶽寺には越谷吾山の墓や、金色の釈迦ねはん像がある。宮前橋の久伊豆神社の参道に引き返し、約480mほど歩くと久伊豆神社につく。縛られ狛犬が珍しい。再び宮前橋前に戻り、元荒川沿いを足立越谷線を過ぎ、大野島越谷線にでる。右に曲がり103mほど本陣跡の「できどころパン店」があるここから630m先の信号を左に88mで東武鉄道伊勢崎線 北越谷駅。この信号の右手前に香取神社、深野脇本陣、山脇本陣があるはずだか手がかりなし。
【歩く地図でたどる日光街道】越ヶ谷宿から粕壁宿 越ヶ谷宿から北越谷

初めて歩く人のために - 【 歩く地図でたどる日光街道 】説明  TOPへ
越ヶ谷宿から粕壁宿 越ヶ谷宿(埼玉県越谷市)〜北越谷(埼玉県越谷市) 1547m 18分

越ヶ谷宿(こしがやじゅく)
 日光街道および奥州街道の3番面の宿駅(宿場町)であり、武蔵国埼玉郡にあった。現在の埼玉県越谷市中心部に相当する。
 越ヶ谷宿は江戸時代に整備された宿場町の一つで、日光街道の江戸・日本橋から数えて3番目の宿場である。既に鎌倉時代頃には六斎市の立つ町として栄えていた記述があり、猿島街道、赤山街道が東西南北に貫通する交通の要衝でもあった。江戸幕府の成立後すぐに日光街道の宿場に取立てられ、正式な宿場となった。また元荒川の対岸である大沢村も町場化し、越ヶ谷の伝馬上の助合村として大沢宿が成立している。なお、戦国期は越ヶ谷側は武蔵国埼玉郡、大沢宿側は下総国葛飾郡下河辺荘(新方庄)であり、元荒川は国境であったが、江戸期に入り大沢宿側も武蔵国に編入された。この名残として大沢宿側には下総国の一の宮香取神社が鎮座しており、越ヶ谷側は武蔵国の久伊豆神社がある。現在、久伊豆神社は元荒川の越ヶ谷宿の対岸にあるが、これは治水工事により元荒川の流路が変更されたためである。そして後にこの越ヶ谷と大沢の二つの町を合わせた範囲が越ヶ谷宿といわれるようになり、その規模は千住宿に次ぐ規模となった。
 宿場の範囲は現在の越谷市越ヶ谷から元荒川を渡り、同市大沢に至る範囲である。古くから栄えていた越ヶ谷側は旅籠よりも商家の比率が高いのに対し、大沢側は純粋な宿場の形態を持っており、本陣・脇本陣も大沢側に置かれていた。規模は、大沢側の本陣(福井家)1、脇本陣2(山崎家と深野家)、旅籠大小40軒、人口4,603人であった。うち、本陣付御用旅籠(脇本陣と同格の格式をもった幕府指定の旅籠の事)が16軒で、当宿の重要性が良く分かる。
 1604年(慶長9年)には現在の越谷市増林にあった御茶屋御殿を現在の御殿町に移築され、「越ヶ谷御殿」と称した。この辺りは元荒川沿いの低湿地地帯で、昔は野鳥が多く、徳川家康や徳川秀忠もしばしばこの御殿に宿泊し、民情視察を兼ねて鷹狩りを重ねていた。しかし、1657年(明暦3年)の明暦の大火により江戸城が焼失したために、この御殿を解体し、江戸城の再建に利用された。一帯は一部を除き畑地として開発されたが「御殿」の名はその地名として残り、住居表示施行の際に「御殿町」として正式な地名となっている。Wikipediaより

天保14年(1843)調査の『宿村大概帳』によると、越ヶ谷宿(本町・中町・新町)と大沢宿(上宿・中宿・下宿)をあわせた距離1町28里、宿高は越ヶ谷宿1603.753、大沢宿1075.522、町並は17町34軒、人数4,603人(男2,227人、女2,331人)、家数1,005軒、本陣1軒、脇本陣4軒(いずれも大沢宿にあった)、旅籠52軒(大11軒、中28軒、小13軒)、問屋場は越ヶ谷宿と大沢宿に各1軒あり問屋は4人で越谷4町(越ヶ谷3町、大沢1町)の名主が交替で勤めた。、宿建人馬50人50疋だった。

宿高(しゅくだか)とは 農作物などを米の取れ高に換算して、村や町宿場の規模を表示したものです。単位は石・斗・升・合・勺(しゃく)で、1石は10斗、、1斗は10升、1升は10合となります。1合は10勺となります。1升は約1.8?(一升瓶1本分)で、1石は一升瓶100本分の量となります。なお、1俵はおおよそ3斗5升のお米を入れました。

町(ちょう)と間(けん)とは 町と間は、長さを測るときの単位のことです。1町は約109.09mとなります。1町は60間です。1間は6尺(しゃく)で、約1.82mになります。なお、町・間・尺は時代によっても少しずつ長さが異なりました。

本陣・脇本陣・旅籠とは いずれも旅館です。本陣・脇本陣は、参勤交代の大名や勅使・公卿といった貴人が宿泊しました。本陣が利用できないときには、かわりに脇本陣が利用されました。一般旅人が宿泊する旅籠があります。旅籠は、食事つきの宿泊施設です。

問屋場(とんやば)とは 問屋(といや・とんや)ともいい、次の宿場まで乗り継ぐ人足や馬を用意したり、公用の出張者の旅館手配など、宿場業務を取り扱う施設のことをいいます。

宿建人馬(しゅくだてじんば)とは 参勤大名や役人などが通行するときに、宿場で用意する人足(にんそく)
と馬の最大数のことです。足りない分は助郷(すけごう)として、周辺の村々から調達しました。本来50人50疋を割り当てられていましたが、文化5年(1808)に35人35疋に変更されました。

香取神社(かとりじんじゃ)
 香取神社という名前の神社は、「香取」を社名に持ち経津主神を祭神とする神社。
関東地方を中心として全国に約400社あり、千葉県香取市の香取神宮を総本社とする。多くは香取神宮から勧請して創建され、神宮と同じ経津主神を祀っている。
 主に利根川・江戸川沿いを中心に分布する。南の荒川沿いには氷川神社、それらに挟まれる元荒川沿いには久伊豆神社が分布し、その分布圏は境界を侵すことなく分かれていることが西角井正慶により指摘されている。香取神社の分布圏は10世紀以降に開拓された、元は低湿地だった土地である。Wikipediaより

越ヶ谷久伊豆神社(こしがやひさいずじんじゃ)
 越谷市越ヶ谷にある神社である。越谷の総鎮守とされている。旧社格は郷社。宮内庁越谷鴨場と共に市の「環境保全地域」に指定されている。
 創建は鎌倉時代とされている。神紋は立葵である。これは、近くに徳川将軍家が鷹狩などを行う越ヶ谷御殿があったことから、葵紋の使用が特別に許可されたものとされている。
 境内には、国学者・平田篤胤の仮寓跡とされる松声庵がある。境内の藤は県指定の天然記念物となっている。
 また、本殿の裏手には第二次世界大戦中、パラオ共和国コロール島に建立され日本人入植者などの信仰を集めた「南洋神社」をしのぶ「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」が建立されている。 久伊豆神社の本宗である伊勢神宮の南洋における分社であったことと、土屋前知事が遺骨収集団団長としてパラオを訪問していて交流が深かったことから建立が決まった。 2004年4月11日の竣工奉祝祭にはパラオのトミー・レメンゲサウ大統領も出席した。Wikipediaより

木下半助商店(木下金物店)    TOPへ
 明治前半より営業と聞かされてます。旧式の大工道具、建築金物等扱ってますが
在庫がなくても問屋にあれば取り寄せることが出来ます。年配の女主人がいつも座っていらっしゃいます。

鍛冶忠商店   TOPへ
 日用品雑貨(荒物)を販売している店です。明治33年に建てた蔵造りの店舗です。前の職業は鍛冶屋だったそうで、屋号もそれにちなんだ店名です。明治になり、今の荒物屋に変わり、藁工品(筵、こも、荒縄)などを取り扱い現在に至っております。

「寺橋」由来の碑   TOPへ
 元荒川の呼称は寛永6年(1629年)徳川幕府の治水対策で荒川本流の入間川筋(和田吉野川)への瀬替以後のことであり、かっては古荒川とも呼ばれた。
 この瀬替えによる流量不足を補うため中島用水(現葛西用水)が開発され、それにともなって、天嶽寺前を開削し流路とする河川改修がおこなわれた。この改修は越ヶ谷御殿地から花田村(現花田地区)を迂回して小林村(現東越谷地区)に至る彎曲した流を直道に疏通させ、瓦曽根溜井までの通水の便を図ったものである。
 文明10年(1478年)開基とされる越ヶ谷天嶽寺前のこの河川改修に伴い、遮断された旧越ヶ谷町内との通行利便のため、天嶽寺第4世城譽上人(正親町天皇第3皇子)の発願により橋が架けられた。以後この橋を地元の人達は、親しみを込めて「寺橋」と呼び、現在に至っている。
 この「寺橋」付近は流もおだやかで昭和初頭の頃から地元青年団による子供達の水練場(水泳場)が開設され、大いに賑わい、越ヶ谷の夏の風物詩ともなっていたいたが、昭和34年にコンクリート製の橋に架け替わった頃より、地域開発に伴う環境の変化と併せて水質の悪化が著しく、時代の流れとともにその姿は消えた。
 平成15年11月宮前橋(旧称寺橋)の新設竣工を機に元荒川の環境保全と「寺橋」の名の歴史的意義を顕彰し、この碑を建立する。 平成18年9月吉日 「寺橋」由来の碑建立之会

越ヶ谷天嶽寺   TOPへ
 所在地 越谷市2549
 天嶽寺は浄土宗の寺で、山号を至登山遍照院と称し、文明10年(1478)専阿源照の開山と伝えられている。
 古くは小田原北条氏の城砦に用いられたといわれ、北条氏による寺領寄進状を蔵していたと伝えられる。天正19年(1591)11月、徳川家康より高15石の寺願寄進朱印状が交付されている。徳川家康は越谷宿をしばしば訪れているが、二代将軍の秀忠、三代将軍家光は狩猟のついでにこの寺にたちよっている。
 なお、天嶽寺は雲光院、法久院、遍照院、善樹院、という五か寺の塔頭があり、格式の高い寺院であった。
また、入口には庚申塚と呼ばれた小高い丘があり、ここには延宝元年(1673)の文字庚申塔や元禄8年(1695)の青面金剛彫像庚申塔など、数多くの庚申塔が建てられてい。また、参道に沿った庚申塚の下にも「かハしも二郷半、川かみかすかべ」などと道しるべが付された大供養塔や猿田彦大神塔などが並んでいる。このほか境内には方言学の祖といわれる 越ヶ谷五山の句碑などが建てられている。
 天嶽寺の本尊は阿弥陀如来であるが、釈迦仙の涅槃像(寢仏)も安置されている。これは珍しい金仏として越谷市指定の文化財となっている。 昭和61年3月 埼玉県 越谷市

越谷市弟指定有形文化財彫刻 木造釈迦如来涅槃像     昭和57年2月23日指定   TOPへ
 この像は、釈迦が入滅する姿を彫刻したものです。像の大きさ60cm、高さ17cm、寄木造りで、江戸時代前期に造られたものです。釈迦が入滅する姿は、画像や彫像にされたものが多くありますが、彫刻は比較的少ないもので、市内では唯一の彫刻涅槃像です。
 その姿は、通肩の衲衣をまとい右手を枕にして横たわっています。衣文の処理や彫方もよくまとめられており、穏やかな容貌をしています。全体に保存がよく、全身に塗られた金箔もよく残っています。当寺本堂に安置されています。 平成17年 越谷市教育委員会

越ヶ谷市指定有形文化財歴史資料 越谷吾山供養墓石  平成4年11月28日指定   TOPへ
 越谷吾山の墓は、深川霊厳寺にあったといわれているが、その墓は現存していないため、ここ天嶽寺の供養墓石は吾山唯一の墓石といわれている。
 吾山は、その名を秀真といい、亨保2年(1717)越ヶ谷宿新町名主会田家に生まれ、天明7年(1787)の没、享年71歳、若年より江戸などの文人と交流して俳諧に精進し、のち「法橋」という芸道の位に推挙された。また、安永四年(1775)には、諸国の方言を分類解説した「諸国方言物類称呼」を刊行し、後生方言学の始祖と称され高く評価されている。
また、天嶽寺境内には、「ひとつるべ 水ひかるや けさの秋」という吾山の句碑が建てられているが、これは吾山150年忌を記念して昭和九年に建碑されたものであり、越谷の人々が、いかに越谷出身の吾山を誇りにし、その業績を讃えていたかを知ることができる。 平成17年 越谷市教育委員会

埼玉県指定 天然記念物  久伊豆神社の藤  昭和16年3月31日指定   TOPへ
 この藤は、株廻り7m余り、地際から7本に分かれて、高さ2.7mの棚に枝を広げています。枝張りは東西20m、南北30mほどあり、天保8年(1837)越ヶ谷の住人川鍋国蔵が下総国(現千葉県)流山から樹齢50年の藤を舟で運び、当地に移植したものといわれています。樹齢およそ二百年と推定されます。
 花は濃紫色で、枝下1.5mほど垂れ、一般に“五尺藤”と呼ばれています。花期は毎年5月初旬が見ごろで、毎年このころに、「藤まつり」が盛大に開かれます。
 藤はマメ科に属する蔓性の落葉樹で、日本、中国、アメリカ、朝鮮に少しずつ異なったものが自生しています。我が国のフジは、大別して、ツルが右巻きで花は小さいが花房は1m以上になるノダフジと、左巻きで花は大きいが花房は20cm前後のヤマフジとがあります。当神社の藤は前者に属し、基本種は本州、四国、九州の山地に自生しています。 昭和58年3月 埼玉県教育委員会 越谷市教育委員会 久伊豆神社

越ヶ谷市指定記念物名勝 久伊豆神社社叢  昭和42年1月11日指定   TOPへ
 越谷久伊豆神社本殿裏の社叢は原植生であるスダジイ林が残されている。その林相は、6m以上の高木層にはスダジイを中心にヒノキ・タブ・モチノキ・ケヤキ、六メートルから3mの亜高木層にはヤブツバキを中心にスダジイも混在している。3m以下の低木層には、アオキ・サカキ・シロダモを中心にニワトコ・アカメガシワなどが茂っている。最下層の下草にはジャノヒゲ・フユノハナワラビ・メヤブソなどの植物が地表を覆っている。
 これらの中には、本来の植物相ではなく、小鳥や風によって種子が運ばれ自生したと思われるものもあるが、スダジイ林が定着しているのはきわめて希で、学術的にも価値が高いと評価されている。
平成8年 越谷市教育委員会 久伊豆神社

久伊豆神社  所在地 越谷市越谷1700   TOPへ
 久伊豆神社は、祭神として大国主命、事代主尊など五柱が祀られ、例祭は毎年9月28日である。
 当社の創立年代は不詳であるが社伝によると平安末期の創建といい、鎌倉時代には武蔵七党の一つである私市党の崇敬をうけたという。古来、武門の尊崇を集めて栄え、室町時代の応仁元年(1467)に伊豆国(静岡県)宇佐美の領主宇佐美三郎重之がこの地を領したとき、鎮守神として太刀を奉納するとともに社殿を再建したと伝えられる。江戸時代には、徳川将軍家代々の信仰が厚かった。
 当社は、厄災招福、開運出世の神として関東一円はいうまでもなく、全国に崇敬者がある。家出をしたり、悪所通いをする者に対して、家族の者が“足止め”といって狛犬の足を結ぶと必ず帰ってくるといわれている。 境内には、県指定旧跡となっている幕末の国学者平田篤胤仮寓跡や、篤胤の門人が奉納したといわれる県指定天然記念物の藤の老樹が枝を広げている。 
 なお、当社は昭和59年度に県から「ふるさとの森」の指定を受けている。昭和60年3月 埼玉県 越谷市

越谷市指定有形文化財考古資料 建長元年板碑  昭和45年3月23日指定   TOPへ
 越谷周辺から発見されている板碑は、秩父の緑泥片岩で造られている。塔婆の一種であることから、板石塔婆とも呼ばれている。この板碑は、板碑初発期にあたる鎌倉時代の建長元年(1249)銘の年号が刻まれたもので、市域で発見された板碑の中では最古のものである。しかもその高さ155cm、幅56cmに及ぶ最も大きな板碑でもある。種子(仏をあらわした梵字)は弥陀一仏で、その彫りは深く、初発期板碑の特徴をよく現している。
 平成11年3月 越谷教員委員会

越谷市指定旧跡 越谷御殿跡 指定日昭和47年10月25日   TOPへ
 天下に君臨した徳川家康は、慶長7年(1602)奥州道を公道に指定し、越ヶ谷宿を取立るなど、道中の設備を進めさせました。そして慶長9年(1604)には増林にあった御茶屋御殿を越ヶ谷郷の士豪会田出羽資久の敷地内に移し、壮大な御殿を建築しました。これを「越ヶ谷御殿」と称しました。
 家康は、しばしばこの越ヶ谷御殿に宿泊し、民情視察を兼ねた鷹狩りを重ねていました。ことに慶長18年(1613)には3度も訪れ、1日に鶴を19羽も捕捉したとあります。また、二代将軍秀忠も、同じく越ヶ谷御殿を訪れ、1ヶ月にわたり宿泊し鷹狩りに興じていました。
 しかし明暦3年(1658)1月の江戸の大火で江戸城が全焼したため、急遽越ヶ谷御殿を解体し江戸に運び、江戸城を再建しました。
 越ヶ谷住民は御殿が江戸に移されてからも、将軍の別荘があった所として、この地を「御殿」と称し今に至っています。その面積はおよそ六町歩(約6ヘクタール)です。
 現在では御殿の面影を偲ばせるものは残っておりませんが、「御殿町」という地名にその名を残し越谷の人々に語り継がれています。 平成11年3月 越谷市教育委員会

八幡神社
田中米店
行徳屋
白屋旅館
大沢橋
横田診療所
有瀧家
タブノキ
木下半助商店
塗師屋
会田金物店
遠藤家
天麩羅
蒲焼き
市神社
米長乾物店
大野屋
岡埜製菓
きどころパン店
越谷宿本陣
福井家
天嶽寺
久伊豆神社
縛られ狛犬
香取神社
越谷御殿
建長元年板碑
香取神社
平田篤胤
スカイツリーライン

【お食事処】

【ご宿泊】

【歩く地図でたどる日光街道】リンク用バナー
【リンクについて】
当サイトへのリンクは自由です。上記リンク用バナーをご利用ください。
ただし、リンクサイトのホームページの内容が法律や公序良俗に違反している場合は、リンクをお断りします。
なお、当サイトは予告なくページの変更または削除することがあります。
相互リンクは、こちら からお願いいたします。
【免責事項】
当サイトからリンクを設定しているサイトの内容は、各ホームページ管理者の責任で管理・運営されているもので、
それぞれのリンクサイトの掲げる使用条件に従って利用下さい。

【歩く地図でたどる日光街道】
http://nikko-kaido.jp/
mail JZE00512@nifty.ne.jp
制作・著作:風になりたや(浜田輝雅)
Copyright(C)2010-2013 nikko-kaido All Rights Reserved.
このサイトの文章・画像、地図は著作権で保護されていますので、無断転用、転載はご遠慮下さい。
但し、個人で使用する場合は、その範囲ではありません。しかし、会社や団体等で使用する場合は連絡下さい。
ご利用される場合、内容の加筆や削除はご遠慮下さい。
ご意見や記載内容についてご意見があればお聞かせ下さい。
inserted by FC2 system