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地図でたどる日光街道TOP > 地図検索 > 10.谷塚〜草加説明

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日本倍から日光東照宮までの街道沿いに紹介したい宿泊施設や食事店がありましたらご連絡下さい。

第一次千住宿 〜第二次草加宿  06.千住新橋〜梅島  07.梅島〜竹の塚  08.竹の塚〜保木間  09.保木間〜谷塚  10.谷塚〜草加  ⇒草加宿〜越谷宿へ

谷塚から草加まで
松戸草加線との交叉点「吉町5丁目」の手前右角に「火あぶり地蔵」がある。この交叉点から二つ目の交叉点まで590mほど行くと三叉路になっている。右が久4号線。左が「日光街道」で、草加駅前商店街へと入っていく。道の両側がグリーンベルトとなっている。三叉路から220mほどで、左手に草加市役所がある。その左角に「地蔵堂」がある。草加市役所の先、左手に「浅子正三家」の古民家、「草加神社標柱」がある。右手に「回向院」がある。さらに左に、古民家があり「市役所北」信号となる。約200m行くと右側に「葛西道石標」、信号を左に行くと東武鉄道草加駅へ250m。左角に「道路元標」がある。さらに少し行って右手に「藤代家」の古民家がある。さらに右手角に「道路元標」がある。先に行くと、左手に永田神社、草加市歴史民俗資料館、草加小学校がある。その先、左手に古民家、右手におせん茶屋公園がある。







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千住宿から草加宿 谷塚(埼玉県草加市)〜草加宿(埼玉県草加市) 1676m 21分

草加宿(そうかしゅく)
 日光街道および奥州街道の2番目の宿駅(宿場町)で、武蔵国足立郡にあった。現在の埼玉県草加市中心部に相当する。
 草加宿は日光街道および奥州街道の江戸・日本橋から数えて2番目の宿場である。慶長6年(1601年)に江戸に幕府を建てた徳川家康によって整備された。当時、この一帯の街道筋は沼地が多かったため、これを迂回し花俣(現在の東京都足立区花畑)から八条(八潮市)に出て古利根川と元荒川の自然堤防に沿って越ケ谷に至る経路を取っていた。慶長11年(1606年)になって、大川図書(ずしょ)が先頭に立ち、現在の旧街道筋にあたる低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住-越ヶ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。この新道の工事の完成に当時の将軍徳川秀忠は喜び、「草を以て沼をうづめ、往還の心安すきこと、これひとえに草の大功なり。このところ草加といふべし」と下知した。これが「草加」という地名の由来と言われる。当時、千住 - 越ヶ谷間には宿場が無かったが、このルートが完成すると街道沿いに茶店や旅籠屋など旅人相手の商いを目指す人々が集るようになり、寛永7年(1630年)に草加は千住宿に次ぐ2番目の宿、千住宿と越ヶ谷宿の「間(あい)の宿」として取り立てられることになった。
 開宿当初、家数は84軒、宿延長は685間、伝馬人足25人、駅馬25頭と小規模であったが、徐々に人口が増え、正徳3年(1713年)、草加宿総鎮守として市神(神明宮)が建てられると五・十の六斎市が開かれるようになり、近郷商圏の中心としても繁栄するようになった。このころから享保年間(1716年-1736年)にかけて急速に発達し、天保14年(1843年)調査の『宿村大概帳』によると、距離2里8町、宿高1679.409、町並み南北12町(約1.3km)、人数3,619人(男1,693人、女1,926人)家数723軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒(大2、中30、小35)、問屋場1軒、宿建人馬50人50疋。これは、同じ日光道中の宿場のうち、城下町に併設されていた宇都宮宿と古河宿を除けば、千住宿、越ヶ谷宿、幸手宿に次ぐ規模であった。
 宿場の位置は、現在の草加市役所の前に建つ地蔵堂付近から神明一丁目の草加六丁目橋付近までの、東京都道・埼玉県道49号足立越谷線(1937年(昭和12年)に新道として開通)の西にある「箪笥の取っ手状の道」となっている一帯である。Wikipediaより

宿高(しゅくだか)とは 農作物などを米の取れ高に換算して、村や町宿場の規模を表示したものです。単位は石・斗・升・合・勺(しゃく)で、1石は10斗、、1斗は10升、1升は10合となります。1合は10勺となります。1升は約1.8?(一升瓶1本分)で、1石は一升瓶100本分の量となります。なお、1俵はおおよそ3斗5升のお米を入れました。

町(ちょう)と間(けん)とは 町と間は、長さを測るときの単位のことです。1町は約109.09mとなります。1町は60間です。1間は6尺(しゃく)で、約1.82mになります。なお、町・間・尺は時代によっても少しずつ長さが異なりました。

本陣・脇本陣・旅籠とは いずれも旅館です。本陣・脇本陣は、参勤交代の大名や勅使・公卿といった貴人が宿泊しました。本陣が利用できないときには、かわりに脇本陣が利用されました。一般旅人が宿泊する旅籠があります。旅籠は、食事つきの宿泊施設です。

問屋場(とんやば)とは 問屋(といや・とんや)ともいい、次の宿場まで乗り継ぐ人足や馬を用意したり、公用の出張者の旅館手配など、宿場業務を取り扱う施設のことをいいます。

宿建人馬(しゅくだてじんば)とは 参勤大名や役人などが通行するときに、宿場で用意する人足(にんそく)
と馬の最大数のことです。足りない分は助郷(すけごう)として、周辺の村々から調達しました。本来50人50疋を割り当てられていましたが、文化5年(1808)に35人35疋に変更されました。

煎餅
 元々この一帯では稲作が盛んに行われており、農家では蒸した米をつぶし丸めて干したものに塩をまぶして焼き、間食として食べていた。江戸期に入り、この地に宿場が開かれ発展していくと、この塩味の煎餅が旅人向けの商品として売り出され、各地に広まることとなる。その後、利根川流域(千葉県野田市など)で生産された醤油で味をつけるようになり、現在の草加煎餅の原型となったといわれている。
 現在、草加市内にはせんべいの製造所や販売所が60軒以上に及び、現在も草加の代名詞となっている。製造工程は機械化されつつあるが、昔ながらの天日干しや手焼きで製造する所も少なからず存在する。Wikipediaより

火あぶり地蔵   TOPへ
 昔々、千住の掃部(かもん)宿(現在の千住仲町付近)に母親と一人の娘が住んでいました。娘の父は、かなりの借金を残してこの世を去り、後に残された母娘二人は、借金を返済するために一生けんめい働きました。生活は苦しいながらも、人柄の良い親子は、近所のだれからも好かれていました。しかし母娘二人の収入では生活していくのが精一杯で、とても借金を返す余裕などありません。
 ある時、瀬崎村のさるお大尽の家で女中を探しているという話を聞き、これがかなりの好条件だったものですから、娘は奉公に出ることになりました。親孝行で働き者の娘は、ここでもみんなから可愛がられ、娘の家の借金もだんだんと少なくなり、幸せな毎日を送っていました。
 お大尽の家に奉公に出て何年か過ぎたある時、長い間の無理がたたったのでしょうか、娘の母親が重い病気で倒れ、近所の人に面倒をみてもらっている事を知りました。娘は、主人の気げんのよい時や、ひまな時などを見はからっては、「ご主人様、お願いでございます。母が重い病で伏せっております。看病のために、しばらくおひまをいただきたいのです」と何度も哀願しましたが、主人はどういうわけか、娘の頼みを聞きいれてはくれません。その間にも母の病状は悪化し、娘はいてもたってもいられません。悩みぬいたあげく、「この家が燃えてしまえば、母の元へ帰ることができるのだわ」と考え、大胆にもお大尽の家に放火をしてしまいました。
 幸いにも、被害は少なくてすみましたが、「犯人は、誰か」という事で大騒ぎになりました。意外にも、犯人がこの家の働き者と評判の女中であり、放火の理由がわかった時は、村人たちは大いに同情しました。
 しかし、火つけの罪は「火あぶりの刑」と定められていましたので、娘はこの地で処刑されてしまいました。村人たちは、この哀れな罪人の霊を慰めるために、講(こう)の人々が中心となって、処刑された場所にお堂を建立し、地蔵を安置して供養しました。 草加市役所ホームページより

浅子家の地蔵堂(あさこけのじぞうどう)   TOPへ
 別名子育て地蔵。言い伝えでは、浅古家わきを流れていた堀が増水したときに上流から流されてきた地蔵を、浅古家先祖が救い祭ったところ、子宝に恵まれたといいます。
明治35年ごろの子育て地蔵。戦前までは、毎年8月24日(旧暦の地蔵盆)になると、地蔵堂に貯まったおさい銭を2銭銅貨に両替し(のちに1銭)、近所の子どもたちに配っていました。当時は子どもたちがたくさん集まりましたが、現在はこの辺りに子どもたちが集まることがめっきり少なくなり、ちょっと寂しいです。子育て地蔵は、子宝の地蔵。子どもは宝です。草加がいつまでも子どもの声が響くまちであってほしいなと願っています。 草加市役所ホームページより
江戸の豪商・浅古氏が子育て地蔵として祀ったのが始まりです。市役所の一角にあり、12月を除くと毎月24日に扉が開き、この日にお参りすると子供の病気が治ると伝えられています。(草加市観光協会 今様草加宿ガイドマップより)

草加神社標柱
石柱の側面に「御即位記念」大正4年11月10日(1915)建立と刻まれています。明治42年(1909)に旧町村の神社合祀が行われ、氷川神社が草加神社と改称しました。その趣旨のもとに建立したものです。(草加市観光協会 今様草加宿ガイドマップより)

観音寺

道路元標   TOPへ
 八幡神社前の街道を北に向かって約200m進むと、住吉郵便局がある。その局を過ぎた右側に、石の「道路元標」が建っている。
 この位置は、かつて草加宿の問屋場(といやば=駅亭)があった所で、にぎわいの中心地であり、宿駅の中継点でもあった。道路がやや広くなっているのもそのためである。
 ここはまた、明治期に街道を走った馬車鉄道の乗降駅でもあった。道路にレールを敷き、軌道の上に馬車を走らせたのが、馬車鉄道である。
 草加の高橋荘右衛門を代表として、千住馬車鉄道会社が設立されたのは明治22年であった。出願から4年の歳月を経て千住茶釜橋から越谷町大沢までの、運行を開始した。
 文明開化を象徴する馬車鉄道は多くの庶民に歓迎され、粕壁町まで伸延したものの、やがて事業は赤字となり、6年あまりで廃業となった。
 時代は一層便利な路面電車へと移りつつあったが、草加の有力者たちはこの施設を買い取り、「草加馬車鉄道合資会社」を新たに設立し、運行業務を継続したのである。
客を運ぶ馬車は二頭立が基本である。二頭が並列して走るので馬の負担が大きく、過労死が重なり、支障が続出した。
さらに東武鉄道の開業が追い打ちをかけ、乗客の激減とともに、ついに解散となった。
日光街道の交通革命に情熱を燃やし、滅びゆく軌道に夢をのせた草加びとの心意気は、今も町の歴史の語り種(ぐさ)となっている。 草加市役所ホームページより
埼玉県が明治44年(1911)に県内各地に建立したもので、この元票を起点とし谷塚・千住・越谷・浦和・栗橋への距離が尺単位で示されています。(草加市観光協会 今様草加宿ガイドマップより)

昭和56年1月31日指定 市指定有形文化財  八幡神社 獅子頭雌雄一対  草加寺高砂2-20   TOPへ
 この雌雄一対の獅子頭は、高さ83cm、幅80cm、奥行87cmもあり舞に使われる獅子頭と比較すると、大型で重量もあり、獅子の胴衣をつける穴もなく、獅子頭として神幸に供養したものである。しかし、現在では山車に乗せて曳いたという以外に伝承は残っていない。
 かかる大型の頭では、重量の関係もあり彫技に変化をつけることは至難であるが、江戸末期の平面的な技法によって構成されてい。この彫工も男獅子の角には、かなり苦心したらしく宝珠との釣り合いもあり、中央に一画の太い角は、獅子の頭部の一部が岩のように盛り上がったごとく彫り込んであるが、獅子の角としては珍しい手法である。塗りは、布着せ黒漆塗りとし、唇・鼻の穴・舌は朱漆塗り巻毛・耳・宝珠等は金箔押とし保護のため生漆をかけてある。本体は寄木工法からなり、材は檜であろう。歯は上顎からに二本の牙がでて歯の並びに変化を与える古い手法を用いている。
 このような大型の獅子頭は、遺構も少なく貴重なものである。 昭和56年3月 草加市教育委員会
『草加町見聞史』によれば、享保年間(1716〜36)に稲荷社を祀ったのが始まりで、安永6年(1772)に木造八幡神像を同社に併せて祀ったことによりげんざいの神社名となったと伝えられています。(草加市観光協会 今様草加宿ガイドマップより)

草加市歴史民俗資料館   TOPへ
 丸木舟や土器などの考古資料、古文書や板碑などの歴史資料、農具やせんべい製造具、里神楽の面や衣装などの民俗資料が収蔵展示されています。建物は県内初の鉄筋コンクリート造りの草加小学校西校舎を改修したものです。 大正15(1926)年に建設された歴史民俗資料館(旧草加小学校西校舎)は、埼玉県初の鉄筋コンクリート(RC)造校舎でした。
外観はモルタル仕上げで、パラペット(人や雨水の落下を防ぐため、屋上の外周を囲むように設けられた低い壁)の正面中央最上部に見られる緩やかな山型のデザインは、この建物の芸術性の高さを象徴する部分となっています。
この建物は昭和55(1980)年度から草加小学校校舎として利用されなくなりましたが、市民の伝統的な生活様式や風俗習慣が急変し、有形無形の民俗資料が急速に失われつつある中で、先人たちが残してきた文化財を保護していくための施設として生まれ変わることとなりました。
昭和57(1982)年に改修工事が行われた後、翌昭和58(1983)年11月1日に歴史民俗資料館は開館し、現在に至っています。   草加市役所ホームページより

草加一里塚

浅子正三家(あさこしょうぞうけ)
明治末期に完成した建物で、日光街道に面して母屋(おもや)が建てられています。建物の規模は比較的大きく、広い敷地内の梅の木は市の保存種です。草加市保存景観賞受賞。(草加市観光協会 今様草加宿ガイドマップより)

吉田家
草加神社

回向院(えこういん)
本堂には、阿弥陀三尊(あみださんぞん)、善導大師(ぜんどうだいし)、法然上人(ほうねんしょうにん)が祀られています。本堂外陣には、不動明王像(ふどうみょうおうぞう)、呑龍上人像(どんりゅうしょうにんぞう)が祀られています。(草加市観光協会 今様草加宿ガイドマップより)

三峰神社(みつみねじんじゃ)
山岳信仰が興盛であったことを示す、秩父の三峰神社の「オイヌサマ」を毎年祀っています。(草加市観光協会 今様草加宿ガイドマップより)

葛西道(かさいみち)
草加に残る古道の一つ。駅前通り拡幅により、道標が現在地に移設されています。(草加市観光協会 今様草加宿ガイドマップより)

藤城家(ふじしろけ)
明治初期の建物で、町屋建築として貴重な建物です。草加市保存景観賞受賞。(草加市観光協会 今様草加宿ガイドマップより)

明治天皇行在所
明治9年(1876)と同14年(1881)の二度の巡幸(じゅんこう)の行在所(あんざいしょ)となったことを記念した碑です。現在、建て物はこの地になく、大川医院の前に石標が立っています。(草加市観光協会 今様草加宿ガイドマップより)

氷川神社
大川図書

おせん茶屋(おせんちゃや)
 旧日光街道に面し、近世宿場の雰囲気をただよわせる公園です。かつては草加町役場などがありました。昭和63年(1988)には建設省(現国土交通省)の手作り郷土賞に選ばれました。旅の記念に詠んだ俳句を投函できる投句箱が四・五・六まちづくり協議会により設置されています。
トイレもある小休みするにはうってつけの茶店風休憩所。旧日光街道の宿場の雰囲気を味わうことができる。

草加市
吉町
高砂
中央
住吉

【お食事処】

【ご宿泊】

【東武鉄道電車でハイキング】
草加ハイキング&ウオーキング 
下車駅:東武鉄道スカイツリーライン・伊勢崎線草加駅
■コース(歩程約6q 約1時間30分)
草加駅〜20分〜手代新橋〜20分〜札場河岸公園〜草加文化会館寺〜20分〜草加せんべい発祥の地〜10分おせん茶屋〜5分〜市立歴史民俗資料館〜10分〜草加駅
■飛脚でも疾走してきそうな松並木、宿場町にただようあの香ばしい香り。
「草加・越谷、千住の先」と謡われた草加の宿の歴史は比較的新しく、江戸時代初期になります。奥州日光街道の宿場町であった千住と越谷の間は、当時は、川・沼沿いに道が大きく東側に迂回し、旅人にとって、また日光へ参勤する要人にとっても大変不便な個所でした。  そこで、慶長11年(1606)、宿篠葉村の大川図書をはじめとする、この地の村民が沼を埋め立て、草原を開拓し、今の日光街道を作り上げました。寛永7年(1630)徳川幕府から、この地を奥州日光街道2番目の宿場町と正式に認可され、草加の歴史がはじまりました。開業当初は、旅籠5 軒程度の小さな宿場でしたが、奥州日光街道の発展とともに、草加の宿場も成長し、江戸時代の後期には本陣・脇本陣もそなえた大規模な宿場に発展しました。また、綾瀬川は江戸への舟運として利用され、草加宿は物資の集散地としても発展しました。  明治時代になると鉄道が引かれ、草加の街は、東京という大消費地に向けた生産地として有名になりました。中でも、皮革業者と染物業者が草加の街へ多く移転し、現在でも多くの製品を生み出しています。また、戦後は東京都心への住宅団地、工業団地として都市化がすすみ、現在に至っています。

草加宿 いにしえから今へ 草加宿の伝統が薫る街並みをめぐる(草加市HPより)
草加宿ができの田は江戸時代はじめ寛永七年(1630)でした。県東南部の中心都市として日々発展を続ける草加市。駅前は機能的かつ美しく整備され、都市の玄関口としてふさわしい様相を呈してます。しかし路地に一歩足を踏み入れれば、かつて草加宿として日光街道を歩んだ旅人らが残した歴史の名残りが顔をのぞかせます。草加駅前から松原団地にかけては、そんな昔懐かしい草加宿の空気が濃厚に感じられるエリア。旧日光街道、草加松原、綾瀬川の河岸跡、そして全国にその名を知られる草加せんべいの発祥の地…。一日ではとても廻りきれないほど、見どころにあふれています。
■コース(歩程6.5q 闇4時間)
東武鉄道草加駅〜アコス広場〜草加市歴史民俗資料館〜おせん茶屋〜東福寺〜神明宮〜札場河岸公園〜矢立橋〜草加松原〜百代橋〜草加市文化会館〜甚左衛門堰〜東武鉄道草加駅

綾瀬川エリア 川面に映るさまざまな風景 草加の昔と今の風景を堪能する(草加市HPより)
草加市の中心を流れる町のシンボル、綾瀬川。カモメやカモなどの水鳥が憩い、さまざまな魚が戯れる生き物の宝庫でもあります。それは植物にとっても例外ではありません。このエリアのハイライトは、綾瀬川の堤防に沿って整備された遊歩道。春から秋にかけては一面に花が咲き乱れ、ウォーキングをする人の目を楽しませます。冬には草加市の名物、クワイの収穫が見られるかも。四季折々で異なった表情を見せる川辺は、何度訪れても新たや発見に満ちています。また新栄団地には桜並木もあり、春ともなれば華やかな空気に包まれます。
■コース(歩程5q 約3時間)
綾瀬川バードサンクチュアリ〜新栄団地〜綾瀬川〜国道4号線〜クワイ田〜旭神社〜宝積寺〜綾瀬橋〜藤助河岸〜蒲生大橋〜草加松原〜百代橋〜東武鉄道松原団地駅

毛長エリア 先人の息吹を感じて昔ながらの風情を訪ねる(草加市HPより)
東京都足立区と隣接するこのエリアは、近年急速に開発が進んでいます。マンションや郊外型の大型店が建ち並ぶ光景からは、この地が民話の舞台であったことなど想像すらできません。しかし街を歩けば、道陸神(道祖神)やおじぞう様、昔のゆかりの地など、いにしえの面影を彷彿させる舞台が点在していることに気づくでしょう。現代の中に時折顔をのぞかせる過去の表情は、訪れる人の想像力をかき立ててくれます。その一方、辰井川にはさまざまな工夫を凝らした個性豊かな橋が架けられ、街の新しい魅力となっています。
■コース(歩程約7.5q 約4時間)
東武鉄道谷塚駅〜浅間神社〜宝寺院〜上町境橋〜毛長神社〜泉蔵院〜むじなの森跡〜道陸神〜辰井川10橋〜私立松寿学館跡

柿木エリア 心地よい風と陽の光を浴びて ゆったりとした自然の風景を満喫する(草加市HPより)
高度成長期を境に、住宅団地や工業団地が造成されて市の人口は急増し、都市化が進みました留しかしその過程で失われたり記憶の中に閉じこめられたりした風景も、少なくありません。田園風景の中に点在する集落、その中に寺や神社の森…。このエリアには、かつて日本各地で当たり前のように見られた里の風景が残っています。そしてそれは、郷土出身の作家、豊田三郎がこよなく愛した風景でもありました。中川のたゆたう流れ、心なしか広い空。流れる時間さえも緩やかに感じられるエリアです。
■コース(歩程約5q 約3時間)
東漸院〜下妻街道跡〜音店河岸跡〜女体神社〜経塚跡〜柿木浄水場〜市民温水プール〜そうか公園〜三覚院〜外環道〜越戸バス停

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