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地図でたどる日光街道TOP > 地図検索 > 72.日光駅〜日光東照宮(説明) Axvalue HD高画質 水深100M防水 暗視撮影機能搭載 高級防水腕時計型 フルハイビジョンビデオ&カメラ AX-041 高解像度4032×3024 4GB内蔵 新型1080Pレンズ ハイスペックモデル 39,800円が7,980円

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日本橋から日光東照宮までの街道沿いで紹介したい宿泊施設や食事店がありましたらご連絡ください。

第二十一次鉢石宿〜日光東照宮  72.日光駅〜日光東照宮

日光駅から日光東照宮まで
松原町の交差点の左に日光彫りの村上豊八商店がある。ここは日光彫り体験ができるのでぜひお試し下さい。石屋町公園の信号を右に入っていくと稲荷神社、西行戻石、竜蔵寺に行く。次の御幸町の信号を右に行くと大きなしだれ桜、虚空蔵がある。御幸町の信号を過ぎ、フジカラー、たかのはし印店を過ぎると右にそば処魚要がありそこが鉢石宿入江本陣跡、左には日光郷土センターがあり、いろんなパンフレットやわからないことを丁寧に教えてくれる。道路を横切る高架は昔の日光軌道の架線で日光駅から馬返しまで通っていた。その先に平野本陣、右に高野本陣跡、左に磐裂冷水、日光支所がある。さらに右に日本生命の先の道路を入ったところに鉢石宿の地名の由来となった鉢石がある。左には聖観音堂、観音寺があり、旅館上州屋の先に問屋場杉江家は理容店。左に国の重要文化財に指定されているお土産屋日光物産、板垣退助像、手前の道を上がっていくとほしのみや、日光金谷ホテルがある。右には天海大僧正像、磐裂冷水、トイレがある。さらに橋の手前左、下乗石、神橋。大谷川に架かる日光橋を渡ると日光山内。本宮神社、世界遺産の碑、杉並木寄進碑、太郎杉、深沙王堂、長坂を通り御旅所、勝道上人像、日光火之番八王子千人同心顕彰之碑、表参道を通り、スカイツリーと同じ標高の標柱、五重塔、その正面に日光東照宮の入口となる。長坂を上がらず国道を直進すると、仙台切通を通り右カーブしていくと、日光奉行所跡、日光真光教礼拝堂、青龍神社、金谷武家屋敷跡、田母沢御用邸、殉死の墓、釈迦堂、日光軌道橋梁、日光植物園を通って馬返しからいろは坂、中禅寺湖、男体山、戦場ヶ原、日光湯元へと続く。

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鉢石宿から日光東照宮 日光駅(栃木県日光市)〜鉢石宿〜日光東照宮(栃木県日光市) 2319m 28分

鉢石宿(はついしじゅく)
 日光街道の21番目の宿駅(宿場町)である。現在の栃木県日光市鉢石界隈。鉢石宿は江戸時代に下野国都賀郡にあった宿場町である。もともと鉢石村という村落があったが、元和3年(1617年)に徳川家康を日光山に祀り日光参詣が盛んとなると日光東照宮の門前町として大いに栄えた。現在のJR日光駅の辺りに鉢石宿の木戸があった。当時、入江本陣は御幸町、高野本陣は中鉢石町にあり、参詣者は本陣に投宿して東照宮を参詣した。

天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、鉢石宿(はついししゅく)の距離2里、宿高176.728、町並み5町、人数985人(男516人、女469人)、家数227軒、本陣2軒、脇本陣なし、旅籠19軒も問屋場1軒、宿建人馬25人、25疋であった。

宿高(しゅくだか)とは 農作物などを米の取れ高に換算して、村や町宿場の規模を表示したものです。単位は石・斗・升・合・勺(しゃく)で、1石は10斗、、1斗は10升、1升は10合となります。1合は10勺となります。1升は約1.8?(一升瓶1本分)で、1石は一升瓶100本分の量となります。なお、1俵はおおよそ3斗5升のお米を入れました。

町(ちょう)と間(けん)とは 町と間は、長さを測るときの単位のことです。1町は約109.09mとなります。1町は60間です。1間は6尺(しゃく)で、約1.82mになります。なお、町・間・尺は時代によっても少しずつ長さが異なりました。

本陣・脇本陣・旅籠とは いずれも旅館です。本陣・脇本陣は、参勤交代の大名や勅使・公卿といった貴人が宿泊しました。本陣が利用できないときには、かわりに脇本陣が利用されました。一般旅人が宿泊する旅籠があります。旅籠は、食事つきの宿泊施設です。

問屋場(とんやば)とは 問屋(といや・とんや)ともいい、次の宿場まで乗り継ぐ人足や馬を用意したり、公用の出張者の旅館手配など、宿場業務を取り扱う施設のことをいいます。

宿建人馬(しゅくだてじんば)とは 参勤大名や役人などが通行するときに、宿場で用意する人足(にんそく)
と馬の最大数のことです。足りない分は助郷(すけごう)として、周辺の村々から調達しました。本来50人50疋を割り当てられていましたが、文化5年(1808)に35人35疋に変更されました。

本陣入江喜兵衛(御幸町)
本陣高野源蔵(中鉢石町)
竜造寺
稲荷社
十王堂
観音寺
星宮
日光道中
芭蕉道

正一位 稲荷神社
一、主祭神 稲倉魂命
一、記神 八坂神(明治九年合祀)、大杉神(明治三十年合祀)
一、例祭日 三月十五日
一、由緒沿革
  古伝によれば当社は建保六年(1218)日光山第十六世

西行戻石
 稲荷神社の鳥居をくぐり境内左手にある。
 ながむながむ散りなむことを君も思へ
  黒髪山に花さきにけり


○竜蔵寺
○しだれ桜

虚空蔵尊
 ・寛永十七年(1640)、神橋右岸の磐裂神(虚空蔵尊)を分祀し、東町六ヶ町の住民の鎮守として祀る。
 ・例年、正月九日〜十日に大祭を執行。
 ・御宮造・本朱塗極彩色の社殿は、栃木県文化財指定。
 ・境内に大子堂もある。

日光のおいしい水 磐裂冷水
 千二百余年前日光開山の祖勝道上人がこの地に清水を発見し、以来修験者が神仏に供えた霊水と伝えられる。
この水は男体山系の湧水で、日本でも最もおいしい水として定評がある。

○聖観音堂
○観音寺

日光市指定文化財 史跡 鉢石
 昭和四十三年三月十六日指定(指定第十五号)
 所有者管理者 株式会社三ツ山羊羹本舗
 勝道上人が日光を開山(766)した頃、この鉢石町一帯にも始めて人家が建ち、上人の命令によるものか、または上人の行跡を讃仰する民間伝承かは不明であるが、「鉢を伏せたような形状」が名の起こりであり、上人の法縁にあやかるものである。
 この付近一帯は中世期までは「坂本」と呼ばれていたが、日光山の門前町として「鉢石宿」の名称で呼ぶようになったのは、元和から寛永にかけての東照宮造営を契機としてであり、江戸五街道のひとつである日光街道二三宿駅の最終駅「鉢石宿」である。
 昔より、石の周囲には柵を設け、注連を張って神聖視されて保護の手が加えられてきた。
 日光開山にまつわる民間伝承の古蹟として、また、日光における門前町の発達を示すものとして価値が高い史跡である。


日光街道の起点にはなんと石がある
鉢石宿
 日光街道の最終宿駅。日光宿といえばよいのにと思う人もいるでしょう。しかし、鉢石宿といいます。それは、鉢の形をした石があって、それにちなんで名づけられたからです。現在も鉢石といわれる石が町内にあります。鉢石町は中世からの輪王寺の門前町で、上、中、下鉢石町からなっていて、正保元年(1644)に伝馬宿に定められました。
 本陣は下鉢石町に2軒ありましたが、今も面影をとどめているのは、日光市役所の入口と道をはさんだ反対側にある高野家だけで、その庭には芭蕉の句碑があります。「あらたふと木の下闇も日の光」と刻まれた句は、『奥の細道』の中にある「あらたふと青葉若葉の日の光」と定まる前の句です。 日光街道ルネッサンス21推進委員会 日光街道御徒マップ Walk1より

日光は「ゆば」の町
 日光ゆばは豆乳を煮たときにできる薄い膜を引き上げ、幾重にも巻き上げて作ってあります。水には日光の名水をを使ってあり、伝統ある修行僧のたんぱく源として、作られてきました。日光市内で、さまざまなゆば料理を食べることができます。 日光街道ルネッサンス21推進委員会 日光街道御徒マップ Walk1より

日光における戊辰戦争 
《日光での経緯》
 戊辰戦争とは、徳川幕藩体制国家に代わる統一国家の在り方をめぐって、異なる政治構想を持った政治勢力が激突した戦争である。
 日光における戊辰戦争の経過は慶応四年(九月明治改元・1868年)二月の旧幕府歩兵の進入事件、世直し一揆の進入、維新政府軍香川敬三一隊の来晃、旧幕府大鳥軍の進入、東照宮御神体動座、維新政府軍と旧幕府大鳥軍の対峙、旧幕府大鳥軍の日光脱出、維新政府軍の進攻、輪王寺の東北潜行、維新政府軍の軍政そして、下野知県事による日光領接収という経過をたどるが、山場は旧幕府大鳥軍の進入から維新政府軍の進攻である。
 旧幕府軍大鳥圭介は、「黒髪山の神廟により、盗賊の義旗をあげ、復興を計らん」と有志二千余名をひきい、四月二十五日、江戸幕府の聖地日光にたどりつき、維新政府軍が来たならば、仮橋(日光橋)を焼いて決戦する戦備を整え、戦火はいよいよ日光にも迫ってきた。二十六日には東照宮御神体の動座に踏み切り栗山から会津へと移動され、一方、維新政府軍は土佐藩士板垣退助を主将とし二十九日今市まで進軍し、正午過ぎには今市境、野口十文字で戦闘が始まった。しかし、日光における直接の衝突はここまでで町中までは及ばず、夕刻には大鳥軍も日光を脱出し霧降をとおり六方沢を越え戦いを繰り返し栗山から会津へと向かった。
 このように日光は、危うくして戦火を免れたのであるが、板垣退助の壬生台林寺の僧厳亮を介した公作、決死の覚悟で今市の維新政府軍に交渉した日光山の僧、安居院慈立・桜本院道純の活躍、元老中板倉勝静の大鳥への説得、日光奉行所の保全対策など、多くの先人たちの努力があり現在の繁栄を築いたのである。
  日光市教育委員会

《戊辰戦争関係の遺跡》
@幕臣小花和重太郎の墓碑(日光市匠町・浄光寺)
 旧幕府第七連隊歩兵指図役頭取の小花和重太郎の墓、慶応四年四月二十二日未明、安塚(壬生)の戦いで重傷を負い、手当のかいなく死亡、二十六日今市で荼毘に付され、翌日浄光寺に埋葬された。

A日光奉行所吟味役山口忠兵衛の墓(日光市匠町・浄光寺)
 日光奉行所が維新政府軍寄りの姿勢をとるなかで抗戦を叫び、進攻してきた閏四月一日、日光を脱出し、明治三年維新政府軍に転覆を企てたといわれる雲井龍雄事件に連座し、取調中に獄死した。

B日光奉行所跡(日光市安川町)
 元禄十三年(1700)梶定良屋敷に日光奉行所を創設し、明治四年県庁の栃木移転に伴い解体。その後、保晃会の事務所、日光ホテルを経て現在は古川電工の入町クラブとなっている。

C本宮別所(日光市山内)
 慶応四年閏四月一日、進攻してきた維新政府軍は日光奉行所の吟味役大塚誠太夫らに出迎えをうけたのち、本宮別所において安居院慈立桜本院道純の応接が行われた。現在は、二荒山神社職員の宿舎となっているが当時の面影を残している。

D維新政府軍の宿所(日光市山内)
 禅智院には土佐藩および芸州藩、南照院には彦根藩の宿所に充てられたがこれら宿所は江戸時代には、それぞれの藩の宿望であったからである。

E光栄坊跡(日光市山内)
 大鳥軍の負傷兵の病院に充てられていた。慶応四年五月十三日未明、何者かの放火により焼失した。

F板垣退助銅像(日光市上鉢石町)
 日光を戦火から救った恩人として、昭和四年に建てられ、太平洋戦争で供出された。現在の銅像は、昭和四十二年に再建されたものである。

G会津藩士柿沢勇記の墓碑(日光市上鉢石町・観音寺)
 会津藩士で大鳥軍参謀の柿沢勇記の墓、慶応四年四月二十三日、宇都宮の戦いで重傷を負い、二十七日、日光泉屋金右衛門方で死亡、三十六歳であった。

H芸州藩兵四名の墓碑(日光市上鉢石町・観音寺)
 芸州藩(広島県)の隊士の墓、梶川五郎左衛門二十六歳、松浦熊雄二十三歳、渡辺他人丞四十歳、田辺内蔵之進二十歳の墓である。

I芸州藩兵八名の墓碑(日光市石屋町・龍蔵寺本堂脇)
 芸術藩(広島県)八名の隊士の墓で、最年少は大村豊次郎十七歳、最年長は渡辺地人丞四十歳、他の六人はいずれも二十歳の若さであった。

J土佐藩附属断金隊士臼井清左衛門の墓碑(日光市石屋町・龍蔵寺十王堂脇)
 甲州(山梨県)住人臼井清左衛門の墓、勇敢にも斥候として日光深く潜入、捕らえられて処刑された。慶応四年四月二十九日、二十五歳だった。

K龍門寺跡(日光市所野)
 慶応四年五月一日、今市第一次攻撃に失敗した会津軍は、兵力の手薄な日光を攻略した。小さな争いであったが、その夜、彦根藩兵によって龍門寺及び、手引きした名主等か焼討された。

L大鳥隊士大草保助・広田鉞太郎の墓碑(日光市七里・泉光寺跡)
 慶応四年四月二十三日、宇都宮の戦いで戦死した大鳥隊士大草保助・広田鉞太郎の墓で、上官の陸軍士官高野熊之助が建てたものである。                       日光市教育委員会


 

○杉江理髪店
○護摩垣石採灯

板垣退助銅像
 板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家。
 明治の初期に自由民権運動を展開し、自由党を結成。土佐(高知)出身。
 明治元年(1868)戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し社寺を兵火から守ったといわれる。
 その遺徳を讃え昭和四年に建立されたが、最初の像は、第二次大戦中に軍需に徴収された。昭和四二年に再建。 彫刻家、新関国臣の作。

天海大僧正(慈眼大師)像
 天海は比叡山で天台宗の奥義をきわめた後、徳川家に仕え、日光山の貫主となる。当時の日光は豊臣秀吉に寺領を没収され、荒廃の極みにあった。家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移し、東照宮の創建に尽くした日光中興の人である。
 天海は寛永二十年(1643)一〇八歳で大往生した。この銅像は、日光出身の彫刻家倉沢実の作。

○神橋
 
深沙王堂(蛇王権現堂)
 伝説「山菅の蛇橋」にあるように、勝道上人一行が大谷川を渡れないでいる時に、二匹の蛇を放って一行を助けた深沙大王は「毘沙門天」の化身であり、その昔仏教経典を求めてインドに向かかう玄奘三蔵を危機から救ったといわれる。橋渡しの神という信仰から、縁結び、また、蛇信仰から「商売繁昌」の信仰もある。現社殿は、昭和五十三年の再建。

星の宮

太郎杉
 神橋近くの老杉群の中で、この樹が最も大きく優れた姿であることから「太郎杉」と呼ばれている。
 樹齢 約五百五十年
 樹高 四十三メートル
 目通り周囲 五・七五メートル
 昭和三十年代、道路拡張計画のため、伐る伐らぬの裁判で注目を集めた。

杉並木寄進碑(特別史跡)
 松平正綱とその子正信の親子二代が、二十余年を費やして山内地区と東照宮へ通じる日光街道、御成街道、例幣使街道、会津西街道沿いの延べ三十七キロメートルにわたり、二十数万本の杉を植え、東照宮に寄進した。
 この日は、そのことを記念して、正信が慶安元年(1648年)4月に建てたものである。同様の碑が他に三基、各街道の日光神領の境ごとに建てられ「境石」とも呼ばれる。

○御旅所
○日光奉行所跡

神橋
 これより日光山内を示す橋です。昔、二荒山を目指していた勝道上人が、この川にぶつかり渡れなかったとき、神仏に祈ったところ、深妙大王が現れ、赤い蛇と青い蛇を橋に変えて渡してくれたといいます。現在、平成の大修理で終わり、ひときわ美しく輝いています。 日光街道ルネッサンス21推進委員会 日光街道御徒マップ Walk1より

勝道上人銅像
 板垣退助の銅像で有名な新関国臣氏の銅像で、日光市市制を記念して建立され、昭和30年4月1日に除幕式をしました。 日光街道ルネッサンス21推進委員会 日光街道御徒マップ Walk1より

日光山輪王寺(三仏堂)
 8世紀末、日光開山の祖、勝道上人が創建した四本竜寺に起源をもつ。空海や円仁(慈覚大師)などが来山したと伝えられ、また、坂上田村麻呂や源頼朝などの武将の信仰を集めて、修験道場、日光山三社権現の信仰の中心として栄えました。 日光街道ルネッサンス21推進委員会 日光街道御徒マップ Walk1より

日光東照宮
 徳川家康公を祀るために、2第将軍秀忠公が元和3年(1617)年に創建。その後、3代将軍家光公が1年5ヶ月かけて大改修をし、完成させました。この建築にかかった費用は56万8千両といわれ、現在のお金にして400億円といわれています。陽明門をはじめとして42の建物はすべて、国宝並びに重要文化財の指定を受けています。 日光街道ルネッサンス21推進委員会 日光街道御徒マップ Walk1より

日光二荒山神社
 男体山(二荒山)をご神体とする壮大な境内をもつ神社です。8世紀末に、勝道上人が開山してから日光山信仰の中心となってきました。 日光街道ルネッサンス21推進委員会 日光街道御徒マップ Walk1より

大猷院霊廟
 徳川3代将軍家光公の霊廟。敬愛してやまなかった祖父家康公が祀られた東照宮に寄り添うように建てられている廟で、東照宮に比して落ち着いた色彩・装飾が施されています。 日光街道ルネッサンス21推進委員会 日光街道御徒マップ Walk1より

滝尾神社
 弘仁11(820)年に、弘法大師空海が神霊の降下を祈願し、女神の姿を見て建立したと伝えられる神社で、二荒山神社の別宮です。参道の途中にある二の鳥居(運だめしの鳥居)や、縁結びの笹などで人気があります。
日光街道ルネッサンス21推進委員会 日光街道御徒マップ Walk1より
木戸門跡
村上豊八商店
竜蔵寺
西行戻石
稲荷神社
しだれ桜
入江本陣
日光軌道
虚空蔵
磐裂冷水
観音寺
高野本陣
天海大僧正
板垣退助
星の宮
神橋
下乗石
仙台切通
勝道上人
八王子千人同心
鉢石
杉並木寄進碑
太郎杉
深沙王堂
長坂
日光市
栃木県


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