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【歩く地図でたどる日光街道】越谷鍛冶忠商店 【歩く地図でたどる日光街道】タイトル 日光街道TOP
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地図でたどる日光街道TOP > 地図検索 > 27.上高野〜幸手(説明

仲間と出会う、感動と出会うクラブツーリズムの旅/静岡発バスツアー
地図(A3サイズ)を印刷するには地図をクリックするか  k-27.pdf  をクリックしてください。
日本橋〜日光東照宮までの街道沿いで紹介したい宿泊施設や食事店がありましたらご連絡下さい。
第五次杉戸宿〜第六次幸手宿  25.杉戸〜杉戸高野台  26.杉戸高野台〜上高野  27.上高野〜幸手  ⇒幸手宿〜栗橋宿へ

上高野から幸手まで
ジョイフルホンダの脇を過ぎ、東武鉄道日光線を横切り、しばらく歩くと正面にベルクの信号。この交叉点にあるのが御成街道で、左に行くと琵琶溜井、羽生街道の追分がある。この信号の左手前に、「左、御成道(岩附道)」、「右、幸手道といわれる日光道中」、右に曲がるとすぐ信号があり、右先に太子堂、その先、信号左手前に、神宮寺、薬師堂。さらに左に東武丸山病院、そして東武線日光線の踏切を横断。「志手橋」の三叉路を右に行くと4号線の分岐点へ、川を渡ってすぐ左に眼病に効く田螺不動尊で知られる「神明神社」があり、ここが幸手宿の入口で幸手宿の高札場があった。「幸手駅入口」の信号左手前に「明治天皇御幸の碑」がある。右に古民家があり、国の重要文化財に指定されている。この信号を左に350m行くと東武線幸手駅で、昔は一色城があった。その手前左に「一色稲荷神社」がある。道路をはさんだそば屋更科の右に道があり、これが江戸以前の奥州街道だったという。「幸手駅入口を」右に行くと4号線。この信号から古民家が点在している。左に文政二年(1819年)創業の「あさよろず」はリニューアルし、その面影はない。「中1丁目南」信号の左手前に古民家「永文商店」には横町鉄道と呼ばれるトロッコが家の左にある。右にも古民家があり、ちょっとした広場になっているここが問屋場などがあり、宿の中心だった。さらに60m先「中1丁目」の信号左に本陣知久家の案内板がある。信号の先左に「幸宮神社」の道標。まっすぐ行くと「荒宿」の信号を左に行くと雷電神社がある。左は千葉県関城へ。100m先左に四脚門の聖福寺がある。つきあたりの聖福寺の入口に道標、右角に幸手一里塚がある。



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杉戸宿から幸手宿 上高野(埼玉県幸手市)〜幸手宿(埼玉県幸手市) 1939m 25分

御成街道と琵琶溜井 幸手市南2-7
 江戸から川口・岩槻を通るこの道を御成街道といい、千住から越谷・春日部を通る日光街道と幸手で合流します。徳川家光が東照宮参詣のために整備した街道で、代々の将軍がこの道を通りました。この街道沿いには当時の杉・松の並木や道標、正徳2年銘の庚申塔が残されています。 
 琵琶溜井は江戸時代に、関東郡代伊奈忠克が古利根川を開発して琵琶型のダムと各地への水門を造り、水田へ水を流すためと、江戸を水害から守るために利用したもので、土地の人は「樋の上」と呼んでいます。 幸手市教育委員会

日光道中・日光御成街道合流点 幸手市南2-10-3-10地先
 日光道中は宇都宮まで奥州街道を兼ね、千住から草加・春日部を通り幸手へと至り、ここで日光御成道と合流します。
 川口・鳩谷・岩槻を抜けて幸手に至る御成道は、家光の時代に整備され、徳川家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行しました。
 また、地元で羽生街道とよばれている道も合流しており、ここを多くの旅人が行き交ったことと思われます。 幸手市教育委員会

御成街道追分
上高野神社
御成街道道標

御成街道(おなりかいどう)と琵琶溜井(びわためい)
幸手市南2-7
 江戸から川口・岩槻を通るこの道を御成街道といい、千住から越ヶ谷・粕壁を通る日光街道と幸手で合流します。徳川家光が東照宮参詣のために整備した街道で、代々の将軍がこの道を通りました。この街道沿いには当時の杉・松の並木や道標、正徳2年銘の庚申塔(こうしんとう)が残されています。 琵琶溜井は江戸時代に、関東郡代伊奈忠克が古利根川を開発して琵琶型のダムと各地への水門を造り、水田へ水を流すためと、江戸を水害から守るために利用したもので、土地の人は、「樋の上(ひのうえ)」と呼んでいます。 幸手市教院委員会

日光道中・日光御成道合流点
幸手市南2-10-30地先
 日光道中は宇都宮まで奥州街道を兼ね、千住から草加・春日部を通り幸手へと至り、ここで日光御成街道と合流します。 川口・鳩谷・岩槻を抜けて幸手に至る御成道は、家光の時代に整備され、徳川家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行しました。 また、地元で羽生道と呼ばれている道も合流しており、ここを多くの旅人が行き交ったことと思われます。 幸手市教育委員会

日光道中と日光御成道
 幸手は、江戸時代、幕府が設定した五街道のひとつ「日光道中」の江戸から数えて第6番目の宿場町として栄えました。
 一方、「日光御成道」が上高野村地内(現在の南2丁目)で合流します。御成道は、徳川家康の霊を祀る日光東照宮に社参する将軍が通行するための将軍専用街道という性格をもっています。

◎幸手宿の面影を伝える建造物
 幸手宿の面影を伝えるものに、建物があります。現在の商店街の街並みに残る蔵造りの民家はその代表格で、風格ある建物は、街の景観に積み重ねられた時間の厚みを与えています。
 そうした建物のひとつに、平成21年11月2日に「岸本家住宅主屋」として、国の登録有形文化財として登録を受けた岸本家住宅(中2丁目)があります。
 岸本家住宅は、大正時代まで醤油醸造業を営んでいた同家の居宅です。土蔵造り2階建て(一部木造平屋建て)で江戸時代末期に建築された、市域では数少ない貴重な建造物です。

◎見直そう街の身近な歴史と文化
 岸本家宅をはじめ、商店街に残る歴史的な建造物などの旧幸手宿を探訪される市外のグループを案内する機会がありましたが、江戸や明治の昔の世界への時間旅行を体感されたようでたいへん好評でした。幸手に暮らす私たちは見馴れた商店街の景色ですが、市外のみなさんには新鮮に映り、感動を得たようです。
幸手市には、多くの人を感動させる文化財という資産がたくさんあります。街道の歴史、宿場の歴史はその一つなのですが、私たち市民が、その価値に気付くこと、見直すことが、大切なのではないでしょうか。
幸手市役所ホームページより

日光道中と日光御成道
 大字神明内の浄誓寺の本堂裏手には、高さ3mほどの塚が築かれています。これが市指定文化財(史跡)の「将門の首塚」です。
 平将門は、10世紀前半(平安時代中期)にいわゆる「平将門の乱」を起こした人物です。この塚は、戦死した将門の首を愛馬がくわえてここに運び、村人か家来が埋めたものといわれ、その伝承を物語るかのように古い五輪塔が塚上に安置されています。
 この塚の歴史を示す資料に江戸時代の元禄16年(1703年)に、大名の水野隠岐守勝長の家老・水野織部が著わした『結城使行 全』(茨城県結城市発行)があります。
 そこには、以下のように書かれています。
 「ここ(上高野村)から一里(約4q)ほど東北の「しへ打」(神明内)という村に平親王将門の墓所があるという。また、木立という所は、将門滅亡後に子孫が隠れ住んだとして「公達村」(木立村のこと)と書くという」(現文意訳)
この資料は、有名な赤穂浪士の討入りの翌年に書かれたものです。つまり、今から300年前、すでに将門の墓の情報が世間に知られていた事実を確認できるのです。
 平安時代に生きた平将門と、幸手との具体的な関わりを示す史実は伝わっていません。しかし、江戸時代の初めまでの市域は、将門と関係の深い「下総国猿島郡」に所属していました。いわば、同じ郡内で活躍した人物が将門であったということです。
 一千年以上も前のことになりますが、「将門の首塚」から草深い平安時代の幸手の姿を想像してみてはいかがでしょう。 幸手市役所ホームページより

太子堂

神宮寺(じんぐうじ)
幸手市南2-3-19
 鷹尾山誓願院神宮寺(たかおさんせいがんいんじんぐうじ)と称し、浄土宗(じょうどしゅう)の寺で、本尊は薬師如来(やくしにょらい)です。 源頼朝が奥州征伐(おうしゅうせいばつ)の折に、この地で鷹狩りをし、戦勝を薬師様に祈って開基(かいき)したとも伝えられ、この故事から高尾山誓願院の名が付けられたと云われています。 薬師如来像と脇の十二神将(じゅうにしんしょう)ともにりっぱな彫刻で春日賢門(かすがけんもん)作といわれています。 中世の頃は、神宮寺村と村名になるほどの大寺で、一村寺領であったこともありました。 幸手市教育委員会

源頼朝と神宮寺の薬師如来
 鎌倉幕府の初代征夷大将軍として有名な源頼朝にまつわる伝承が、神宮寺(南二丁目)に伝わる薬師如来の縁起書に見えています(『幸手市史 近世資料編T』292)。
 江戸時代後期の天保15年(1844年)に、鷹尾山 誓願院 神宮寺の24世願誉本冏が記したこの縁起書は、薬師如来像をまつる萱葺き屋根の薬師堂を瓦屋根に替えるため、瓦の寄進を呼び掛ける目的で作られましたが、その内容はつぎのとおりです。
 鎌倉時代の文治年間(1185年〜1190年)のこと。頼朝は、敵対する藤原泰衡を討伐するため奥州へ向かう途中で、逃げ出した秘蔵の鷹を追って当地に訪れました。鷹は、薬師堂境内の大樹に止まったままで、近臣たちが餌箱を叩いて呼んでも下りてきません。頼朝は薬師堂の堂守に命じ、鷹が手元に戻り帰るよう、仏師・春日賢問子の作とされる薬師如来へ祈願させ、自らもまた祈りました。
 すると、鷹は頼朝の左肩に飛び下ります。堂守は、それを見るなり鷹の尾羽を押さえました。鷹は、尾羽2枚が抜け落ちたものの、無事に頼朝の元に戻されたのです。これを喜んだ頼朝一行は、奥州合戦の帰陣後に、善美を尽くした七堂伽藍の寺院を建立、山号を鷹尾山と名付くよう命じ、あわせて薬師如来に誓願したので誓願院神宮寺と号したのです。
 以上が、頼朝と薬師如来の伝承です。
 平成22年10月31日の日曜日、この薬師如来が12年ぶりに御開帳となりました。寅年ごとに行われるこの御開帳は「寅薬師」と呼ばれ人々の信仰を集めています。 幸手市役所ホームページより

薬師堂

天神神社(てんじんじんじゃ)
 埼玉県幸手市中1丁目16番23号(旧地名:大字幸手字天神町4339)に所在する神社である。この天神神社はかつて裏町天神とも称されていた。境内地面積は1反3畝2歩となっており、祭礼は10月25日とされている[2]。神社の創建に関して定かではないものの、幸手庄の領主であった一色氏によるものと伝承され、この天神神社は一色氏の館の鬼門に位置していたと伝わっており、館の守護神として祀られたとの言い伝えがある。
境内施設として、本殿(社殿)、鳥居(「天神神社」の神額)、阿形と吽形の狛犬一対、境内社(猿田彦大神、鳥居・狛犬一対・手水舎・水道あり)、案内板(複数)、天神町自治会館、天神町山車庫、「天神神社改築記念碑」と彫られた石碑、「奉納 宅地百八拾九坪」と彫られた石碑、「奉納」と彫られた石碑、「奉納 杉苗五百本」と彫られた石碑、防災行政無線、防火水槽、ベンチ、滑り台、ブランコ、鉄棒、イチョウの木、欅の木、松の木、杉の木、梅の木、棕櫚、つつじなどである。Wikipediaより抜粋

志手川

神明神社(しんめいじんじゃ)と田螺不動尊(たにしふどうそん)
幸手市中2-1-5
 神明神社は、宝暦5年(1755)に伊勢皇太神宮(いせこうたいじんぐう)の分霊(ぶんれい)を祀った神社です。 境内に成田・菅谷両不動尊があり菅谷不動尊はたにし不動尊ともいわれています。眼病の人が、たにしを描いた絵馬を奉納して祈願すればご利益があるといわれ、この絵馬は他にはあまり例のないものです。江戸時代には、ここに高札場(現在の掲示場)がありました。 また、その他に大杉神社の神輿や大正12年の関東大震災の祈念碑などがあります。 幸手市教育委員会

几号高低標(きごうこうていひょう 英国式水準点)
幸手市中2-1-5
 この案内板の後の石は、以前神社に奉納された灯籠(とうろう)の基礎の部分で、長い年月の間に上部が壊れたために脇に置かれていたものです。 その側面に「漢字の木の上につきでていない記号」の記号が刻まれていますが、これは、「几号高低標」といいます。 明治7年(1874)にイギリス式の測量方法が導入され、東京・塩竈(しおがま 宮城県)間の水準測量を行った際に神社の鳥居や灯籠などに設置されたもので、横線は測量に用いる平板(へいばん)を表し、下の部分は三脚を表しています。 幸手市教育委員会

明治天皇行在所(あんざいしょ)説明板
 説明板の文面は次のとおりです。 (台・屋根部分は復原)
 説明
明治14年山形秋田両縣及北海道巡幸(じゅんこう)の際7月31日 同御還幸(かんこう)の砌(みぎり)10月10日行在所となり 明治29年10月近衛師團(このえしだん)小機動演習天覧の為埼玉縣下行幸(ぎょうこう)の際 同月20日より22日行在所となりたる處(ところ)にしてよく舊規模を存せり
 注意
一、火気に注意する事
一、工作物樹木等を損傷せざること 昭和10年11月2日 文部省 幸手市教育委員会

明治天皇行在所(あんざいしょ)跡
 幸手市中1-15-10
 明治天皇は、明治9年6月奥羽巡幸(おおうじゅんこう)の際、14年7月・同10月山形・秋田・北海道巡幸の際、29年10月近衛師団(このえしだん)の演習天覧の際に幸手を通られ、明治9年には元本陣(ほんじん)の知久(とく)家に、あとは右馬之助(うまのすけ)町の元名主であった中村家に宿泊しています。
 この公園に、「明治大帝行在所御跡」と刻んだ記念碑、指定説明を記した説明板(台・屋根部分は復原したもの)、現在は効力を失っていますが、当時の史跡名勝天然記念物保存法による指定標識、の3点が移設され、保存されることになりました。 幸手市教育委員会

一色館跡と陣屋稲荷
 所在地 幸手市中1丁目15-31
幸手駅付近一帯に、城山(しろやま)又は陣屋(じんや)という地名が残っているが、ここは古河公方(こがくぼう)足利氏の家臣一色(いっしき)氏が館を構えた跡といわれている。一色直朝(なおとも)は天文中(1532〜55)に足利晴氏(はるうじ)、義氏(よしうじ)にしたがい、のち田宮庄(たみやのしょう幸手庄)に住したという。直朝の子の義直(よしなお)も幸手庄に父とともに住したが、小田原の北条氏没落後は徳川家康に仕え、幸手庄のうちにおいて5160石余りの領地を与えられている。
 現在は昔をしのぶ土塁跡などは見ることが出来ない。ただ館跡と思われる位置から巽(たつみ 南東)の方向に祀られている陣屋稲荷は、別名一色稲荷とも呼ばれ、一色氏の守り神として祀られた氏神であると伝えられている。
 今でも地元の人々の信仰を集めており、毎月22日の縁日と、初午祭(はつうままつり)などの祭りが行われている。 昭和62年3月 埼玉県 幸手市

幸手城
幸手城は、鷲宮方面から南流する古利根川(現葛西用水路)を後背とした河岸段丘に位置した。ここは、平須賀方面から中川にいたる流路(現倉松川)と旧利根川との結節点であり、陸路を通じて栗橋城や関宿城、鷲宮城とも結ばれていた。(幸手市史 幸手歴史物語川と道より)

天神島城
天神島島城は、関宿城、栗橋城とを結ぶターミナルとして機能していた。城内の天神神社は幸手一色氏の信仰の拠りどころである。周囲より小高い神社部分が往時を偲ばせている。(幸手市史 幸手歴史物語川と道より)

市制施行5周年記念 幸手八景 八坂夏祭り
 京都の八坂神社に端を発する祇園祭は日本全国に広まっており、八坂夏祭りもその一つで、幸手で最もにぎわう祭りです。 食物などが腐りやすい夏に、神霊の強い力で疫病や悪霊などを退散させようとするものでした。 7月15日に近い土・日曜日に山場を迎え、昔の山車が引き回されます。 八坂夏祭りは、人と山車と町並みが織りなす勇壮な景色なのです。
 ふるさとの祭りに囃子に沸くまちの 夜店にあかき綿菓子を買う 郷子 幸手市・幸手市教育委員会

幸手宿
 幸手宿は江戸時代に整備され、栄えた宿場町の一つ。日光街道の江戸・日本橋から数えて6番目の宿場である。現在の幸手中心部から北部にかけての旧街道筋付近にあたる。南から北に900m程度の範囲で広がっていた。元々奥州に通じる渡しがあった場所として古くから栄、日本武尊が東征に際して「薩手が島」(当時この近辺は海だったという伝説がある)に上陸、中4丁目にある雷電神社に農業神を祀ったという記述が古書に残っている。鎌倉時代には鎌倉街道が通じ、軍事・交易上でも交通の要衝として栄、室町時代以降は一色氏の領地となり、現在の天神神社付近に陣屋が築かれていた。江戸時代になると、一帯は江戸幕府直轄の天領となり、日光御成街道との合流として、さらに筑波道が分岐する宿場町として繁栄した。なお、この頃に、それまで田宮の庄と呼ばれていた町の名前が幸手となった。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、幸手宿と牛村を合わせた距離1里半余、町並45間、人数3937人(男1946人、女1941人)、家数962軒、本陣1軒、脇本陣は0、旅籠27軒、問屋場1軒、宿建人馬25人25疋、宿高は幸手宿が2095.060、牛村が371.795であった。
 両隣の杉戸宿や栗橋宿と比較すると、2倍以上の宿場規模を誇っており、純粋な宿場としては千住宿、宇都宮宿、陸奥白河宿、越谷宿に次ぐ大きさであった。またこの時代、伊奈氏の手で利根川の付け替え工事が行われ、権現堂川、江戸川が整備され、新田開発による米作の増大と相まって、これらの川を利用した江戸との間を結ぶ舟運が発達し、川沿いに作られた権現堂河岸には廻船問屋が軒を連ねていた。所属として古くには下総国葛飾郡に属していたが、万治年間より武蔵国桜井郷田宮の庄(武蔵国葛飾郡)に属するようになり、田宮町または薩手・幸手町と称されるようになった。その後、元禄年間より幸手宿と称されるようになった。Wikipediaより抜粋

宿高(しゅくだか)とは 農作物などを米の取れ高に換算して、村や町宿場の規模を表示したものです。単位は石・斗・升・合・勺(しゃく)で、1石は10斗、、1斗は10升、1升は10合となります。1合は10勺となります。1升は約1.8?(一升瓶1本分)で、1石は一升瓶100本分の量となります。なお、1俵はおおよそ3斗5升のお米を入れました。

町(ちょう)と間(けん)とは 町と間は、長さを測るときの単位のことです。1町は約109.09mとなります。1町は60間です。1間は6尺(しゃく)で、約1.82mになります。なお、町・間・尺は時代によっても少しずつ長さが異なりました。

本陣・脇本陣・旅籠とは いずれも旅館です。本陣・脇本陣は、参勤交代の大名や勅使・公卿といった貴人が宿泊しました。本陣が利用できないときには、かわりに脇本陣が利用されました。一般旅人が宿泊する旅籠があります。旅籠は、食事つきの宿泊施設です。

問屋場(とんやば)とは 問屋(といや・とんや)ともいい、次の宿場まで乗り継ぐ人足や馬を用意したり、公用の出張者の旅館手配など、宿場業務を取り扱う施設のことをいいます。

宿建人馬(しゅくだてじんば)とは 参勤大名や役人などが通行するときに、宿場で用意する人足(にんそく)
と馬の最大数のことです。足りない分は助郷(すけごう)として、周辺の村々から調達しました。本来50人50疋を割り当てられていましたが、文化5年(1808)に35人35疋に変更されました。

幸手宿 問屋場跡
 幸手宿は、江戸日本橋を起点に日光道中六番目の宿駅であり、また日光御成道との合流地点として知られています。
 幸手は、古代より奥州へ通じる道筋の古い集落でしたが、元和3年(1617)日光東照宮社殿の竣工を期に、幕府がその参拝道として整備した宿駅です。
 ここは幸手宿問屋場です。近くには本陣(大名宿)があり、商店・旅籠屋・茶屋などが軒を連ね賑わった所です。
 問屋場は、公用私用を問わず旅人の世話・荷物の運搬その他街道に関わる一切の事務を管理する役所です。この屋敷は街道に面し、間口6間1尺(1間は約1.8m)、奥行33間半、5畝18歩(168坪)で、ここに問屋場・人足溜・馬小屋などの建物がありました。
 幸手宿の問屋場役は、問屋4人、年寄り8人、帖付4人、馬指4人、見習1人、月行事4人の総勢25人で、年間休むことなく交替しながら業務を続け、人足25人と馬25頭の常駐が義務づけられた重責でした。参勤交代の大名行列の通過や、幸手宿商人が六斉市(ろくさいいち)の2・7の日には、問屋場は特に混雑したものと思われます。
 問屋場脇の道は昔は狭い二間巾の道でした。今でも問屋場横町と呼び親しまれ、昔日の問屋場が偲ばれています。(左に略図あり 省略)  幸手市商工会 1987年3月

幸手宿本陣 知久家跡(ちくけあと)
 幸手市中1-8-16
 知久家は本陣(大名宿)・問屋・名主の三役を兼ね、幸手宿で最も重要な役割を果たした家柄でした。初代帯刀は、長野県伊奈郡の豪族の出で、同郷の関東郡代伊奈熊蔵より幸手宿の久喜町開拓を命ぜられ、諸役を務め、明治3年(1780)に本陣が廃止されるまで、代々幸手宿の繁栄に尽しました。
 明治6年、知久家の書院で小学校が開設され、明治9年、明治天皇が東北巡行の折りに宿泊されています。
 屋敷は、間口約39m・奥行約80mで、約千坪ありました。 幸手市教育委員会

聖福寺(しょうふくじ)
 所在地 幸手市北1丁目9番27号
 聖福寺は、寺号を菩提山(ぼだいさん)東皐院(とうこういん)聖福寺と称する浄土宗(じょうどしゅう)の寺で、本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)であり観音像は雲形作と伝えられている。
 徳川三代将軍家光が日光社参の時、御殿所(ごてんしょ 将軍の休憩所)として使用したのを始めとし、天皇の例幣使(れいへいし)や歴代将軍が18回にわたり休憩した。将軍の間、例幣使(れいへいし)の間、菊の紋章の入った勅使門(ちょくしもん 唐門 からもん)があり、左甚五郎(ひだりじんごろう)といわれる彫刻等も保存されている。また、御朱印状(ごしゅいんじょう)により10石を賜ったことがわかる。
 境内の左に二つの石碑があって、一つには「花づか」と彫られている。江戸文化が華やかであった寛政の頃、幸手宿に秋月庵一松(しゅうげつあんいっしょう)という人がおり、遠州流(えんしゅうりゅう)生花を普及させた。
 その後、日光道中でさかんになり、明治になって遠州流の人たちがこの碑を建てたものという。
 もう一つは「金子竹香(かねこちくこう)顕彰碑」である。金子竹香は江戸時代の儒者であり、書家としても有名で幸手に住んでいた。この碑文は儒者で折衷学派(せっちゅうがくは)の亀田綾瀬(かめだりょうらい)の撰文(せんぶん)と書によるものである。 昭和63年3月 埼玉県 幸手市

日光社参の祈りに将軍が立ち寄ったとされる休憩所
旧日光街道沿いに今も残る聖福寺は菩提山東皐院と号し、浄土宗知恩院の末寺として応永年間(1394〜1428年)に開山したと伝えられています。
江戸時代には将軍の日光社参の折りと、東照宮例大祭に天皇の代理で参拝した例幣使(れいへいし)の帰路の休憩所に用いられ、山門は唐破風(からはふ)四脚門で将軍と例幣使以外は通行できなかったとされています。
阿弥陀如来を本尊とし、運慶の作と伝えられる観音菩薩像が祀られ、境内には漢学者金子竹香(ちくこう)の碑などが建てられています。 幸手市観光協会ホームページより

幸手一里塚跡(いちりづかあと)
 幸手市北2-1-9
 徳川家康は慶長9年(1604)に、全国の主要な街道に一里塚を築かせました。江戸日本橋を起点として、一里(約4km)毎に街道の両側へ、五間(約9m)四方の塚を築きその上に榎(えのき)等を植えて目印にしました。榎は根が深く広がるので、塚が崩れにくかったのです。
 一里塚は、大切な距離標だったばかりでなく、荷役人の賃金計算の距離基準であり、旅人の休憩所ともなりました。
 幸手の一里塚は、明治の初めまでここの両側にありました。 幸手市教育委員会

正福寺(しょうふくじ)
 所在地 幸手市北1丁目10番3号
 正福寺は、香水山(こうすいさん)楊地院(ようちいん)正福寺と称する真言宗(しんごんしゅう)智山派(ちざんは)の寺で、本尊は不動明王である。
 当山は、江戸時代学問の研究や子弟を養成する常法談林(じょうぼうだんりん)であり、当時この寺は、49ヶ寺の末寺をもっていた。また、将軍徳川家光の代、御朱印(ごしゅいん)13石を賜っている。
 境内には、県指定史跡の義賑窮餓之碑がある。天明3年(1783)に浅間山が大爆発したため関東一円に灰が降り、冷害も重なって大飢饉(ききん)となった。この時、幸手町の有志21名が金品を出し合って、難民の救済にあたった。この善行が時の関東郡代伊奈忠尊(いなただたか)の知るとろとなり、顕彰碑(けんしょうひ)を建てさせたという。
 また、樹齢450年、根まわり5mもある槇の大木があり、県の天然記念物に指定されていたが、惜しくも枯れてしまった。
 寺には、多くの古文書や仏像・書画が保存されており、境内には日光道中の道しるべもあり有名である。
 昭和63年3月 埼玉県 幸手市

後世に善行を讃え伝える碑
義賑窮餓之碑は正福寺(しょうふくじ)の境内にあります。
天明3年(1783年)の浅間山の大噴火によって火山灰が厚く積もり、大飢饉が発生しました。翌4年春には飢え死にする人が増えたので、幸手宿の豪商21人が金銭・穀物を出し合い、幸手の民を助けました。
このことが代官伊奈忠尊(いなただたか)に聞こえ、21人と里正(りせい)(名主)は陣屋に呼ばれ褒賞(ほうしょう)を受けました。この善行を讃え(たたえ)後世に伝えようとこの碑を建てました。
※昭和14年3月31日に県指定史跡となっています。 幸手市観光協会ホームページより

幸宮神社(さちのみやじんじゃ)
 所在地 幸手市中4丁目11番30号
 幸宮神社は、昔、八幡香取社といっていたが、明治42年に神社の合祠がおこなわれたのを機会に、幸手の総鎮守となり幸宮神社と改めたという。本殿には彫刻が施され、拝殿には江戸時代の絵師宋文の書いた絵馬が一対奉納されている。
 当社の祭礼は、元旦祭、年越祭、春秋2回の例祭が行われ、多くの参詣で賑わっている。
 境内には、大杉神社、八坂神社、稲荷社が祀られており、大杉神社の神輿は6月27日に渡御(とぎょ)されている。
 また、八坂神社の夏祭りは、各町内から山車が繰り出し、神輿が担がれ盛大な祭である。八坂神社の古い記録には、貞享(じょうきょう)2年(1685)6月八坂神社を波寄(なみよせ)天王山に勧請(かんじょう)すると記されている。そして寛保(かんぽう)2年(1742)7月大洪水があって、波寄の八坂神社の神輿は上高野に流されると記されており、祭の古さを物語っている。以前は7月14日、15日の両日におこなわれていたが、現在は7月の第3土曜日、日曜日におこなわれている。 昭和63年3月 埼玉県 幸手市

満福寺(まんぷくじ)
 所在地 幸手市中4丁目14番地34号
 満福寺は、江柄山(えがらさん)満福寺と称し、真言宗智山派に属する寺で、本尊は如意輪観世音菩薩である。
 この寺は、一色氏発願寺(いつしきしほつがんじ)の祈願として戦国期に建立されたといわれ、その後、裏町天神や八幡香取社の別当を努めた時もあった。
 本尊の観世音菩薩は、安産子育てにご利益(ごりやく)があるといわれている。例年8月9日、10日の四万六千日(しまんろくせんにち)の御縁日には俗に朝観音(あさかんのん)といい、早朝から参詣(さんけい)する人が多く、特にお産前のお腹の大きなご婦人の参詣が目立っている。 昭和63年3月 埼玉県 幸手市

天神神社(てんじんじんじゃ)
 所在地 幸手市中1丁目16番23号
 天神神社は、もとは裏町天神といわれ、祭神は菅原道真(すがわらみちざね)である。
 この神社の創建については明らかではないが、戦国時代の幸手庄の領主一色氏によって創建されたものと伝えられる。一色氏は学問の神様である天神信仰に帰依されて、幸手地方のに多くの天神社を造営した。特に裏町・天神島(てんじんじま)・平須賀(ひらすか)・神扇(かみおうぎ)・上高野(かみたかの)の五社は一色五天神と称されている。この裏町天神は一色氏館の鬼門に位置していたともいわれ、館の守護神として祀られたと伝えられている。 以前は、裏町も天神社にあやかって天神町(現在は、住民表示により中1丁目)と呼んでいたことがある。 昭和63年3月 埼玉県 幸手市

猿田彦大神の由来
 猿田彦大神は庚申(こうしん)さまとも申します。庚申とは暦の十干(かん)十二支(えと)の組み合わせによる60日目に1回めぐってくる庚申(かのえさる)の信仰をいいます。この庚申は古く中国から渡来してきたものですが、日本では佛説と神説にわかれ、青面金剛を祀る庚申塔は佛説であります。猿田彦大神を祀る庚申さまは神説として知られております。猿田彦大神は道案内の神、方位方角の神として信仰され、明治以前までは庚申(かのえさる)の晩は、人々は集い夜もすがら語り明かした庚申待といふ行事が伝えられています。天神町も裏町といった当時この庚申待の行事は盛んであったそうです。阿部谷助氏は信仰心厚く地元の発展と繁栄をねがい猿田彦神社の建築を発心し、有志の方々の賛同を得、昭和5年伊勢の猿田彦本社より分神をいただきここに猿田彦神社を建立したわけであります。
昭和55年は60年目にめぐりくる庚申の年であります。由来を略記し、参考と致します。 撰文 小路精蔵

幸手宿 問屋場跡
 幸手宿は、江戸日本橋を起点に日光道中6番目の宿役であり、また、日光御成道との合流地点として知られています。 幸手は、古代より奥州へ通じる道筋の古い集落でしたが、

雷電神社(らいでんじんじゃ)
雷電神社は埼玉県幸手市中4丁目21-10(旧地名は大字幸手字田宮)に所在する神社である。この雷電神社は別雷之命・配祀倉稲魂命・菅原道真の三柱を祭神とし、古くには田宮の庄幸手領の総鎮守であったが、明治維新後の1873年(明治6年)4月以後は村社に指定されている。本殿は1844年(天保15年)11月に上棟の再建が行われており、1856年(安政3年)6月2日にも再建が行われている。雷電神社の由緒としては、「第11代垂仁天皇の10年のある日に天地が振動雷鳴し、水田中に身の丈7寸余りの黄金の御神像が天から降り、村民のだれもが驚いた。村民は一社を建立したが、当時周囲には水田が広がるのみで民家はなく、わずかに当神社が建つのみであった。ゆえに「水田の中にある社宮」ということから、世の人々はこの地一帯を「田宮」と呼んだ。」というものである。また、雷神は水との関わりが深いため、特に農民からの信仰を集めた。他に社殿の裏手に「瘤神社」・「疣権現」・「疱瘡宮」と彫られた石が建立されており、皮膚病の人々の信仰の姿を知ることができる。 境内社として稲荷社、名称不明の一社、御嶽仮山が祀られている。境内施設として、本殿(社殿)、鳥居(「正一位 雷電宮」の神額)、案内板、「村社雷電神社」と彫られた石碑、狛犬一対、灯籠(複数)、手水舎、力石(複数)、境内社(名称不明の境内社に鳥居あり、稲荷社には鳥居なし)、「伊勢太々御神楽」と彫られた石碑、「伊勢参宮記念」と彫られた石碑、「田宮町 子供神輿新調記念」と彫られた石碑、「二十三夜塔」と彫られた石碑(複数)、「奉納畑七畝九歩」と彫られた石碑、「猿田彦太神」と彫られた石碑(複数)、「稲荷大明神」と彫られた石碑、「御嶽山」と彫られた石碑(複数)、仮山(模擬山)、「三笠山」と彫られた石碑、「寛心行者」と彫られた石碑、「両部 江戸水神宮」と彫られた石碑、「瘤神社」と彫られた石碑、「疣大権現」と彫られた石碑、オリエンテーリングのチェックポイント、田宮自治会館、ツバキの木、マキの木、欅の木、イチョウの木、モミジの木、サツキ、ヤツデ、棕櫚、笹などである。

幸手宿本陣
知久家
聖福寺四脚門
横町鉄道
一色稲荷神社
雷電神社
幸宮神社
幸手宿高札場
田螺不動
琵琶溜井
天神神社


幸手
,石太菓子店
一色氏
幸手市

旧日光街道幸手を感じる会事務局
〒340--0113 幸手市幸手2072 幸手読売センター幸手東内
TEL 0480-42-1340
 パンフレットより
 岸本家住宅 国登録有形文化財 元醤油醸造業 上埜屋の屋号でパリ万博銅メダル
 小島商店 薪炭商・繭絲(けんし)商 1937年(昭和12)建築
 永文商店 酒類販売業 荷さばき用のトロッコ「横町鉄道」あり
 竹村家 元石炭商 昭和初期の建築
 平井家 味噌増の屋号あり 元・米殻商 1922年(大正11)建築
 鴨田家 かつて鉄砲商 明治初期の建築
 アベ洋品店 元菓子商 大塚やの屋号あり 1936年(昭和11)建築
 飯村医院 代々医・薬種業 大阪屋の屋号あり 1923年(大正12)建築
 関家店舗 角田屋の屋号あり 1880年(明治13年)以降の蔵造り建築
 高浜商事 今もつづく肥料商 1934年(昭和9)建築

【お食事処】
ラーメン一番:醤油ラーメン430円〜 11:00〜14:00 日曜定休 TEL 0480-42-0686
食事処新発田:もつ煮込み350円 17:99〜23:00 月曜定休 TEL 0480-43-4232 幸手市中1-13-27
手打ちそば・うどん更科:もりそば500円〜 11:30〜15:00 17:00〜20:00 月曜定休 TEL 0480-42-0424 幸手市中1-14-20
和処すずや:海 鮮丼840円〜 11:30〜14:00 月曜定休 TEL 0480-44-2563 幸手市中1-15-16
中華料理バンク:幸手市中1-1-34 TEL 0480-42-0616
井草食堂:メンチカツ定食700円〜 11:30〜20:00 火曜定休 TEL 0480-42-0201 幸手市中1-4-8
うなぎ義語家:うな重1365円〜 11:00〜14:00 17:00〜20:00 月曜定休 TEL 0480-42-0026
イタリア料理フェルマータ:ランチセットメニュー980円〜 11:30〜14:00 18:00〜21:00 日曜定休 TEL 0480-44-2428
ふく割烹はす沼:日替わりランチ800円〜 11:30〜14:00 17:00〜22:00 月曜定休 TEL 0480-42-0363
しあわせCafe Ami 〜アミ〜:ランチセット500円〜 11:00〜18:00 火曜定休 TEL 0480-42-1411
幸手さくらアンパン:
手づくりの味 伝統和菓子いしまき 石巻千尋 埼玉県幸手市北2-1-15 TEL 0480-42-0426 赤飯、焼だんご、塩あんびん

【ご宿泊は】
旅館あさよろず:
ホテルグリーンコア:

幸手ハイキング&ウォーキング
■下車駅 日光線南栗橋駅
■コース(歩程約8q 約2.5時間)
日光街道と日光御成街道の合流地 堤の桜はまちのシンボル。
隣宿場町の栗橋が利根川水運の用地として栄えたのに比し、幸手は、上野・春日部からの日光街道と、岩槻からの日光御成街道が合流する陸の交通の要地として栄えました。市内にはいくつもの寺社がありますが、幸手の名を有名にしているのはなんといっても“桜”。桜にちなんだ銘菓も多く、訪れる人を桜が歓迎します。
東武鉄道-*南栗橋駅〜35分〜内池〜35分〜権現堂桜堤〜15分〜清保堂〜5分〜熊野権現社〜30分〜正福寺〜3分〜聖福寺〜15分〜幸宮神社〜5分〜東武鉄道幸手駅

幸手てくてく探検隊(埼玉県国保連合会補助事業)
「幸せロードマップ作り講座」手作りマップより
問合せ幸手市健康増進課 TEL 0480-42-8421
http://www.city.satte.saitama.jp

Aふるさと“幸手宿”歴史探訪コース@(歩程約6q 1時間30分)
天神神社(天神様 菅原道真)〜満福寺(四万六千日縁日 一色氏・戦国時代の建立)〜幸の宮(さちのみや 幸手の総鎮守)〜雷電神社(田宮の庄=江戸一色氏以前の総鎮守)〜宝持寺(ほうじじ 幸手最古の寺の一つ)〜橘の守部碑(国学者)〜正福寺(義賑窮餓之碑・浅間山大噴火後粥炊き出し)〜聖福寺(勅使の門・芭蕉の句碑・唐破風四脚門)〜浅間神社(せんげんじんじゃ 安産の神 富士山信仰)・初山(はつやま 赤ちゃんの額に朱印)〜担景寺(たんけいじ 法林山)〜常光寺(18羅漢像)〜朝萬旅館(あさよろず 裏門 宿札)〜ハッピーハンドレリーフ(ハッピーな人・手形)〜神明神社(田螺不動 たにしふどう)〜明治天皇行在所跡(めいじてんのうあんざいしょあと 石柱)〜一色稲荷神社(いっしきいなりじんじゃ 一色氏 古河公方の流れ)

Aふるさと“幸手宿”歴史探訪コースA(歩程約3q 45分)
天神神社(天神様 菅原道真)〜満福寺(四万六千日縁日 一色氏・戦国時代の建立)〜幸の宮(さちのみや 幸手の総鎮守)〜雷電神社(田宮の庄=江戸一色氏以前の総鎮守)〜浅間神社(せんげんじんじゃ 安産の神 富士山信仰)・初山(はつやま 赤ちゃんの額に朱印)〜担景寺(たんけいじ 法林山)〜常光寺(18羅漢像)〜朝萬旅館(あさよろず 裏門 宿札)〜ハッピーハンドレリーフ(ハッピーな人・手形)〜神明神社(田螺不動 たにしふどう)〜明治天皇行在所跡(めいじてんのうあんざいしょあと 石柱)〜一色稲荷神社(いっしきいなりじんじゃ 一色氏 古河公方の流れ)

B水辺ふれあいコース@(歩程約7q 1時間45分)
幸手市役所東公民館〜吉田橋〜中川沿いに沿って ふれあい散歩路〜権現堂橋〜宇和田公園(桜・銀杏並木)〜国道4号線春日部古河バイパスを潜る〜砂利道〜浅間橋〜第六天神社〜蓮華院(お不動様 欄間)〜中島揚水機場〜臨川庵(大銀杏の胎内にお地蔵様)〜浅間神社〜江戸川土手沿いで眺望がすばらしい〜蓮華院〜国道4号バイパス 菅島歩道橋〜幸手市東公民館

B水辺ふれあいコースA(歩程約6q 1時間30分)
幸手市役所東公民館〜吉田橋〜中川沿いに沿って ふれあい散歩路〜権現堂橋〜宇和田公園(桜・銀杏並木)〜国道4号線春日部古河バイパスを潜る〜砂利道〜浅間橋〜浅間神社〜江戸川土手沿いで眺望がすばらしい〜香取神社〜国道4号バイパス 菅島交差点〜稲荷神社〜幸手市東公民館

B水辺ふれあいコースB(歩程約3.5q 55分)
幸手市役所東公民館〜吉田橋〜中川沿いに沿って ふれあい散歩路〜権現堂橋〜宇和田公園(桜・銀杏並木)〜中川往路と反対側沿いをあるく〜吉田橋〜幸手市東公民館

Cさくらふれあい広場コース(歩程約6.2q 1時間30分)
アスカル〜ウエルス〜浄誓寺・将門首塚〜ふれあい広場〜香取神社〜権現堂川用水路〜ウエルス〜アスカル

D権現堂桜堤コース(歩程約6q 1時間30分)
幸手市北公民館〜内国府間北信号〜御幸橋〜高須賀香取八幡神社(神輿・大杉ばやし)〜日光街道道しるべ(「左日光道」「右つくば道」「東川つま道 まいばやし道」)〜御幸橋〜巡礼の碑〜権現堂河岸跡〜マリア地蔵(隠れキリシタンの信仰対象)〜熊野神社(権現堂堤修復絵馬)〜幸手市北公民館

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制作・著作:風になりたや(浜田輝雅)
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